高松栗林公園碑記
山田 梅村
方今大政一新し、文明を理と爲し、開化を是れ務む。或は事の絶域萬里の外に創り、法の先聖一たび成るの後に出づる者と雖も、苟も生民に益有りて、事爲に便なれば、則ち焉に取る有り。是に於て乎、百官職を勸め、四民業を樂しむ。天下駸駸然として、日に昭運に嚮ふ。
夫れ人斯の勞有りて、斯の逸有り。斯の苦有りて、斯の樂有り。以て憂ふること有れば、則ち又喜ぶこと有り。以て鬱がること有れば、則ち又舒ぶること有り。一たび張つて一たび弛み、以て僶俛の資と爲し、且つ以て氣體を節宣して、疾病を除却す。此れ西洋諸國の園囿・遊觀の地を置く所以なる歟。我が朝の府縣も近者亦往往公園の設け有り。公園なる者は、獨り諸官と民と之を共にするを之れ謂ふのみにあらず、廼ち人をして時に游觀し勞逸を節せしむる所の處也。
高松南郊の坂田郷に栗林莊在り。山を扆ひ野に面し、規模寬曠にして頗る勝景・佳區を稱す。舊藩侯・松平氏の別業爲り。昔在、寛永年間に藩祖英公嘗て先封生駒氏の臣・佐藤道益なる者の居址に就て刱て築く所也。節・惠二公を歷て大いに備はる。穆公に至つて益脩治を加ふ。政を聽くの暇、時に儒臣を從へて游び、殊に林泉の賞を恣にす。因つて其の勝を選び、各之が目を定め、或は之が詩を題す。蓋し六十景有りと云ふ。
園は舊と三門有り。二は東に向ふ。一水外に繞り、萬竹内に圍む。路有り入る可し。嶰口と曰ふ。是れ其の北門と爲す。
此れに由りて進めば、東南水を引きて潴はふ。右を潺湲池と曰ひ、左を芙蓉沼と曰ふ。渟泓鑑す可き者を、西湖と爲す。
湖に循つて南すれば、百花の園有り、脩竹の岡有り、戞玉の亭有り、今は廢す。
其の西を鹿鳴原と曰ふ。其の東を睡龍潭と曰ふ。
潭の東は紆餘灣を爲す。水波渺然として小艇泛び、長橋架る。以て一園の勝概を括す可き者を、南湖と爲す。
其の中に楓嶼、杜鵑嶼有り。皆植うる所に因つて以て名を得。
又天女島有り。塔尖り上に聳ゆ。各景象を占む。
湖水活流して、常に盈つ。故に旱乾餘り有れば、五邨の諸田皆其の利に賴る。鯉鮒多く殖す。近ごろ又魚苗數萬を移し、殆ど牣つるの盛を致せり。
傑構湖を枕とし、波光瀲灩檻を蘸らす者を、掬月亭と爲す。
今猶ほ巋存し、秀色突兀として、亭と相對する者を、飛來峯と爲す。
其の麓を過ぎて南すれば、濆泉有りて、石間に瀉ぎ出づ。琮琤として聲有り。矼して涉る可し。
北して棧道を過ぎれば、一澗を得。玉澗と曰ふ。
又北すれば高峰の獨立する有り。芙蓉峰と曰ふ。
石、獸の如きもの有り。飛猿巖と曰ふ。
亂石峙列する者は、會仙巖と曰ふ。
亭の憩ふ可き者有り、考槃と曰ひ、棲霞と曰ふ。堂の賓を會し讌を設く可きもの有り。旁ら櫻花多し。因つて名づけて留春の閣と曰ふ。亦皆廢せり。
北湖と曰ひ、涵翠池と曰ふは、即ち南湖の下流、別に派を成す者なり。
池の北に鳳尾塢有り。鐡蕉叢生し、蒼翠愛す可し。此れ園の大致也。
蓋し此の莊は侯家相傳へ、且に二百年ならんとす。後藩を罷め縣を置くに及んで、鞠つて茂草と爲る者、又茲に數年なり。今也官廢を脩めて之を新たにし、舉て以て公園と爲す。是に於て、亭閣の檐腐ち柱蠹み、之に因つて傾陊する者は、率ね毀撤を行ふ。林木の幹朽ち枝枯れて殆んど將に顚仆せんとする者は、或は斬伐を加ふ。景趣豁然として略舊觀に復せり。
今茲明治八年三月修繕の功を竣へ、達官貴族より下士庶に至るまで、咸春秋の佳日入園して倘佯し游びを縦にするを聽さる。夫れ然る後に勞する者は以て逸し、苦しむ者は以て樂しみ、憂うる者は以て喜び、鬱がる者は以て舒ぶ。而して更に游ぶ者をして自ら公と私とを忘れしむ。嗚呼何ぞ其れ王道の蕩蕩たる乎。顧ふに游樂も豈に亦治道の大なる者に非ず耶。而して民と樂しみを同じくせざれば、則ち百姓之が爲に離散し、臺地・園囿、何ぞ平治の事に與からん乎。而して民と偕に樂しめば、則ち周文の治も之に過ぎざる也。
余深く政理の事由有りて、廢興の時有るを感じ、且つ斯の園の永く天地と墜ちざるを慶ぶなり。因つて謹みて之が記を爲る。
2012年11月3日公開。