日本漢文の世界


高松栗林公園碑記解説

 栗林公園碑は、北門 (嶰ノ口御門)から少し入った、入園料徴収所の前にひっそりと建っています。大きな石碑なので、たいへん目立ちますが、立ち止まって読んでみようとする人の姿はありません。これは漢文教育が廃れてしまった現在における、わが国の漢文石碑に共通の宿命なのです。

栗林公園碑
栗林公園碑。
2011年4月12日撮影。

 この碑の篆額「高松栗林公園之碑」は三条実美公の筆であり、碑記の本文は作者である山田梅村自身が揮毫しています。いずれも立派な筆跡です。有名な碑であるにもかかわらず、本文が一般に知られていないのは残念だと思い、当サイトで紹介することにしました。紹介にあたって碑文を採録した文集等がないかと探してみましたが、見つからなかったため、やむなく現地で碑の写真を撮り、原文を再現した次第です。

栗林公園碑説明看板
栗林公園碑説明看板。
2011年4月12日撮影。

 栗林公園は、国の特別名勝に指定された名庭園です。徳川初期の大名庭園の特徴を留める回遊式庭園として、貴重な文化遺産であり、香川県民の誇りでもあります。

栗林公園
栗林公園。
2011年4月12日撮影。

 栗林公園は、高松藩主の下屋敷(しもやしき=別邸)として、歴代藩主によって作庭がなされてきました。栗林公園の作庭が始まったのは、天正(1573-1592)の頃と言われています。地元の豪族・佐藤氏が自邸の屋敷に作った「小普陀(しょうふだ)」と呼ばれる室町期の手法による庭が、栗林公園発祥の地とされています。

栗林公園小普陀
小普陀。
2011年4月12日撮影。

 その後、寛永(1624-1645)の初年頃、藩主・生駒氏の家老であった佐藤道益(さとう・みちます)が、現在の南湖(なんこ)一帯に庭園を作りましたが、生駒騒動と呼ばれる内紛によって、主家・生駒氏が出羽(でわ=現在の秋田県)矢島に転封されると、佐藤氏も主家とともに矢島へ移ってしまいました。
 生駒氏の後に高松藩主となったのは、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房の長男である松平頼重(1622-1695)でした。水戸家の複雑な事情で、水戸家は弟の光圀が継ぎ、長男の頼重は高松藩に封ぜられたのです。頼重は着任すると、佐藤道益の屋敷跡に、栗林荘の整備を始めました。そして、延宝元年(1673年)に隠居すると、栗林荘内に檜御殿を建てて、そこに住みました。

栗林公園古図
御林御庭之図。第二代藩主のころの栗林荘の図。
2011年4月12日撮影。

 この檜御殿は、明治の始めに民間に売却されてしまい、今は残っておりません。かつて檜御殿のあった場所は、現在は空き地で、付近には現在「商工奨励館」が建てられています。これも明治に建てられた立派な和風建築物です。

栗林公園商工檜御殿跡
檜御殿跡。
2011年4月12日撮影。
栗林公園商工奨励館
商工奨励館。
2011年4月12日撮影。

 栗林公園は、明治初年、廃園の危機に直面していました。明治維新により所有権が藩公・松平家から政府に移りましたが、維持費の工面ができず、庭園は荒れ放題となり、檜御殿(ひのきごてん) や日暮亭(ひぐらしてい)などの重要な建物が民間に売却されて、園外に移築されてしまうなど、災難続きでした。(昭和の敗戦後、旧日暮亭は有志の尽力で買い戻され、いまは園内に再建されています。)

栗林公園旧日暮亭
旧日暮亭。
2011年4月12日撮影。

 そして、公園の敷地も分割して耕地として処分されようとしていた矢先、 地元の名士会が名園の消失を惜しんで反対運動を起こし、ついに政府を動かして、公園として再整備されることになったのです。
 公園再整備の様子は、碑文にも描かれています。倒れた建物や樹木の撤去、池の再生と鯉の幼魚の放流など、公園としての再出発に向けて大規模な整備が行われました。先人の努力によって、天下の名園が今日まで残っていることに、感謝の気持ちでいっぱいになります。
 わが国の三大名園は、金沢兼六園、岡山後楽園、水戸偕楽園ということになっていますが、高松栗林公園は、これら三大名園に比べて、規模も美しさも決して劣るものではありません。それどころか栗林公園は、観光化されすぎた三大名園よりも、かえって訪れる人に深い感銘を与えます。私は、三大名園は栗林公園も入れて四大名園と改めるべきものであると思っております。

 私たちは、平成23年(2011年)4月12日に現地を訪れました。京都からは、神戸三宮までJRで行き、三宮から神姫バスで高松まで行きました。このバスは定期便で、予約の必要もなく、栗林公園前にも停留所があります。
 昼前に現地に着き、近くの「上原屋本店」で讃岐うどんを食べた後、栗林公園へ向かいました。

上原屋本店
上原屋本店。
2011年4月12日撮影。

 北門から入って、山田梅村先生の公園栗林公園碑を拝見した後、ゆっくりと園内を散策しました。ちょうど桜が満開を少し過ぎたころで、多くの人びとが桜の木の下に敷物を広げて、くつろいでいました。人びとののんびりと楽しむ様子に、梅村先生が碑文に書いた公園の設立趣旨が、今も生き続けていることを感じました。梅村先生の碑文に従って、園内を順番に見てまわると、ますますその感を深くしました。

栗林公園の桜
栗林公園の桜。
2011年4月12日撮影。

 碑文は、栗林公園の南側の名勝を中心に書かれており、北園はまったく省かれています。しかし、北園にも群鴨池など見どころがあります。なぜ北園が碑文にないかというと、北園のあたりは、もともと藩主の鴨場であったところで、公園として整備が完了したのは、明治末年だったからです。梅村先生が碑文を作成した明治初年には、未整備の状態だったのです。このように碑文は公園整備の歴史をも反映しています。

栗林公園の群鴨池
群鴨池。
2011年4月12日撮影。

 平成24年7月から、南湖を船頭さんの手漕ぎの小舟で遊覧できるサービスが始まったそうです。公園管理者は、観覧する人が楽しめるように、常に工夫をこらしています。ここにも公園の設立趣旨が生きているのを感じます。

2012年11月3日公開。