日本漢文の世界


紀特模斯的涅士事現代語訳

デモステネスの話(ドイツの書物からの翻訳)

内田 遠湖
 古代ギリシア・ローマ文明が盛んなりしころは、文学や各種の技芸も興隆期にあった。大学者が輩出して、多くの学派が形成されたが、その中で、舞台上で熱弁を振るう人人を「演説家」と称した。デモステネスは、演説家中の傑物である。
 デモステネスはギリシア人である。父親は兵器工場を経営していた。しかし、デモステネスが七歳のときに父親は亡くなり、遺産はすべて後見人に横領されてしまった。彼は虚弱体質であったため、体育学校に入学したが、すぐに退学するはめになった。そのために仲間からは嘲弄され、いろいろな渾名(あだな)を付けられた。
 16歳のとき、大学者カリストラトスがアテネとテーバイの紛争について分析する演説を聞き、その勇壮さに圧倒された。そして、聴衆の喝采と賞賛がいつまでも終わらず、みながカリストラトスを取り巻いたまま送ってゆく様を目撃し、自分も弁論術を究めたいという強い志を持つようになった。
 それからというもの、デモステネスは、あらゆる付き合いを断り、ギリシアの先人たちの書物を研究し続けた。その傍ら、プラトンの講義を聞いたり、イサイオスのところに入門したりして、日夜刻苦勉励し、演説の研究に精神を集中した。そして何年かの後には、演説の技術もずいぶん上達していた。そこで彼は、群集の中で演説してみたいと思い、ある日、舞台上での演説を試みた。しかし、聴衆は彼の演説を嘲笑し、口笛を鳴らした。(訳者注。西洋では、演説が気に入らないときには、口笛を吹いて野次る。)デモステネスは、落胆して舞台を降りた。しかし、一人の友達が叱咤激励してくれたので、再挑戦を決意し、何日も練習してから、再び舞台に立った。しかし、またも彼の演説は嘲笑の的となった。デモステネスはいたたまれず、外套で顔を隠して、小走りに帰宅した。
 友人の俳優サテュロスが、後を追いかけてきて声をかけた。デモステネスは言った。
「僕は、何年もの間、演説に全力を注いできた。それなのに、聴衆は僕の演説を賞賛してくれない。それどころか、学問もない奴等の演説のほうを、ありがたがっているんだ。」
サテュロスは言った。
「たしかに君のいうとおりだ。しかし、君が嘲笑されたのには、三つの理由がある。一つには、すぐに息切れして、声が出ていないことだ。これは、横隔膜の鍛え方が足りないからだ。そして二つには、言葉が聞き取りにくくて、意味がよく分からないことだ。これは、発音不明瞭な音が、いくつかあるからに違いない。そして三つには、一節話すごとに肩をすぼめている。これは、ほんとに見苦しいぞ。」
 デモステネスは、この友人の論評を聞いて、眼を開かれたような思いがした。
 そこで、彼は海辺の高台に登って、空気がきれいで波音が高いところを選び、大きな声で朗読の練習をして横隔膜を鍛えた。また、砂利を口の中に入れておいて、苦手な音の発音を練習し、いつしか苦手な発音も克服した。そして、演説の練習をするときには、肩の上に剣を吊り下げておいた。彼が肩をすくめるたびに、剣が触れて血が流れる。こうして肩をすくめる醜態を改善した。このように、欠点を直すためには、いかなる努力も厭わなかった。そして、地下室に大きな鏡を置き、その前で表情を変えたり、頭を揺らしたり、手を挙げたり、足を踏み鳴らしたりといった演説の身振りを実演し、出来栄えを確かめた。また彼は、気まぐれで外出することのないようにと、片側の頭髪を剃り落としてしまった。そして、一歩も外出せずに、研究に精を出し、日夜練習に励んだ。
 このような厳しい鍛錬は数ヶ月に及んだ。そして、彼は再び舞台を踏んだ。このときの演説は、声は大きくてよく通り、態度も品があって堂堂としていた。また、言葉の抑揚も、まことに素晴らしい出来栄えであった。聴衆は大喝采し、拍手の音は劇場が震動するほどであった。デモステネスは、これ以後もますます発奮して技を磨いたので、ついに名声は不動のものとなり、同時代人に与えた刺激や影響は計り知れないものがある。後発の演説家たちは、みなデモステネスの話し振りをまねたが、彼を超える演説家は、ついに一人として出現しなかった。
 
 訳者のコメント。
 西洋の諺に、「水滴は止まることがなければ、岩にも穴をあける」というのがある。また、「何度も何度も斧で打ち続ければ、大木もいつかは地に倒れる」というのもある。これらの諺は、勤勉の力こそが志を成就する元であることを教えたものだ。デモステネスは一体何者であるか。つまらない、子供のような人物にすぎない。しかるに彼は、困苦を重ねて発奮し、いかなることがあろうと微動だにせず志を貫いた。それゆえに一世の泰斗と仰がれるまでになったのである。世間には、自分の能力を自分で見限り、努力を放棄しておいて、志の成就しないことを、資質のあるなしのせいにしている者が多い。しかし、そのような人たちも、デモステネスの伝記を読めば、自分も頑張ってみようという気持ちになるのではなかろうか。

2004年11月3日公開。