明治9年、わが国で最初の幼稚園が開園した直後に書かれた見学記です。この幼稚園は官立で、女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の付属でした。その創設には中村敬宇先生が関わっていたといわれ、主任保母として迎えられたドイツ婦人・松野クララ(クララ・チーテルマン)は、ドイツで幼稚園の創始者フレーベルから保育法の直伝を受けた人でした。そのため、この幼稚園では当初から本格的にフレーベルの理論にもとづいた教育が行われました。
この文章は、幼稚園の開園後まもない明治9年に、22歳の青年であった塩谷青山先生が書いた見学記です。幼稚園関係者の記録ではなく、当代一流の若き漢学者の手になる見学記はきわめて珍しく、貴重な記録です。
近代的な幼児教育に重大な関心をもち、できたばかりの幼稚園へ見学に行ったりしているのは、ふつうの漢学者にはないことであり、青年らしさを感じます。このときの青山先生の感想は、幼稚園は大したものだが、入園できる幼児の数が少なすぎるのが問題だ、ということでした。この意見は、まさしく核心をついています。実際、その幼稚園に入っていたのは、華族や高級官僚、裕福な市民の子弟だけであり、庶民の子弟には幼稚園などまったく無縁の場所であったからです。
現在では、ほとんどの幼児が幼稚園もしくは保育園に入っています。しかし、先日おきた幼児殺害の凶悪事件の犯人は、なんと中学1年生の子供でした。幼児教育の進んでいる豊かなはずの今の日本で、前代未聞の事件が起てしまったのです。問題の核心は、子供の教育よりはむしろ、社会全体で規範が失われ、人人が欲望のままに好き放題をしているところにあります。残念ながら「性悪説」が消滅する日はまだまだ遠い先であるようです。
※この日本最初の幼稚園については、名著『日本の幼稚園』(上笙一郎・山崎朋子著、ちくま学芸文庫)の冒頭でくわしく紹介されています。この本は、幼児教育の発展に情熱を傾けた民間の人人の列伝ですが、官立の幼稚園としては、この日本最初の幼稚園だけが特別に取り上げられています。子供たちのために、わが身をなげうって尽くした人人のエピソードは、涙なしではとうてい読めません。興味のある方はぜひ読んでみてください。
2003年7月20日公開。