日本漢文の世界


觀曳布瀑遊摩耶山記現代語訳

布引の滝を見物し、摩耶山に登ったこと

齋藤 拙堂
 天保4年(1833年)、癸巳(みずのとみ)の年の秋九月、私は攝津・播磨を旅行した。
 9月22日、兵庫の宿場から大阪へ帰るのに、早めに宿を発ち、街道沿いの生田神社に参拝した。境内の樹木はいずれも古木で、粛然とした思いになる。
 ここまで来たからには「布引の滝」を見にゆこうということになり、右へ曲がって、砂山(いさごやま)に登った。1キロばかり険しい道を登り、丘を越えると、茶屋がある。「滝見茶屋」というその茶屋のまん前に滝はあった。岩壁の上から水の流れ落ちる様子は、それこそ布を引っ張ったようで、「布引の滝」という名も、この景観から名付けられたものである。しかし、丘の上からまっすぐに滝を見たのでは、それほどの奇観でもないので、岩場を下りて滝壷の中へ降り立ち、下から岩壁を仰ぎ見た。滝の途中に石が張り出しているところがあり、そこへ滝の水がぶつかって轟音とともに弾(はじ)け飛び、宝石のような水しぶきが、こまかなしぶきとともに空中に飛散して降り落ちてくる。突然の大雨に打たれるかのようで、私は全身びしょぬれになりながら、しばらく陶然としていた。それから帰途に着いたが、下り坂の中ほどに右に下りる道があり、そこを下りるともう一つ滝がある。この滝はさっきの滝よりはすこし小さく、土地の人は「雌滝(めんだき)」と呼んでいる。さっきの滝は「雄滝(おんだき)」である。布引の滝は、『伊勢物語』、『平治物語』などにもその名が見え、古くから名勝として知られている。
 そこから左へ4キロほど行き、「青谷道」を通って摩耶山へ登った。山の岩肌と樹木の紅葉との色の重なり具合はまことにすばらしい。しかし、山道はたいへん険しく、一歩ごとにぜえぜえいう始末。やっとのことで天上寺の山門に着いたが、門の内側の方がもっと道が険しいのだ。何しろ、顔面すれすれになろうかというほどの急な石段が数百段もある。僧坊が石段を両側から挟み込むように立てられているが、どの僧坊も基礎は石積みで、上層までの高さは、あわせれば数十メートルにもなる。下から上まで積み上げるように建てられており、その荘厳さは城壁のようだ。石段を上り詰めて頂上に着くと、そこは広広とした寺の境内である。立札には「忉利天上寺」とある。ここから連日歩いてきた道のりを見渡すと、すべて足元に広がっている。大阪湾は青青と広がり、その周りを諸国の山山が囲んでいる。そして、紀州(和歌山)と阿波(徳島)の間は、はなれているため海だけしかなく、まるで大きな輪がその部分だけ欠けているようだ。欠けた部分から見ると海(太平洋)は極まりなく、どこまでも続いている。
 山門から出て「上野道」から下山した。くねくねと曲がって下りる道は「七曲(ななまがり)」と呼ばれており、『太平記』によれば赤松円心が六波羅軍を打ち負かしたところである。サルがたくさんいて、木木の枝に重なり合うようにぶら下がっていたが、人の姿をみると驚き叫んで逃げてしまう。2キロほどの山道を降りて上野村に出ると、やっと道が平坦になる。
 それから、西宮・尼崎を経て大阪へ帰った。摩耶山を振り返ると、まるで雲の上にあるように見える。一歩一歩山との別れを惜しんでいると、山のほうも光線を揺らし、青い光を送ってくる。こうして山との別れは大阪に至るまで続いたのである。

2003年6月1日公開。