日本漢文の世界


觀曳布瀑遊摩耶山記語釈

癸巳(きし)

癸巳(キシ guĭ sì)は「みずのとみ」。天保4年(1833年)。拙堂37歳。

晩秋(ばんしう)

陰暦九月。

攝播(せつぱん)(いう)

攝津国と播磨国。姫路のあたりから大阪にかけての地域。「遊」とは旅行のこと。 

本路(ほんろ)

西国街道(山陽道)のこと。

生田社(いくたしや)

生田神社。神戸市中央区下山手通にある。(阪神大震災で倒壊し、再建された。) 

老蒼(らうさう)

古びている意。もともとは年を取って頭が白くなったことを表す語。 

肅然(しゆくぜん)

厳粛な様子に、自然と敬慕の心が出てくること。

曳布(ぬのびき)(たき)

通常「布引の滝」と表記する。「曳布」は漢語風にアレンジした表記。布引の滝は、山陽新幹線の新神戸駅の北側を少し登ったところにある。上から雄滝(おんだき)、夫婦滝(みょうとだき)、鼓ケ滝(つつみがたき)、雌滝(めんだき)の4つの滝がある。最も大きいのは雄滝で、高さ43メートル。

砂山(いさごやま)

雌滝(めんだき)の左側にある丘の名。滝山ともいう。『伊勢物語』の第87段にある、「いざこの山のかみにありといふ布引の滝見にのぼらん」という句の最初の3文字を取って名づけられたという説がある。別の説では、「いさご山」という呼称のほうが古く、『伊勢物語』の第87段は実は「砂山のかみにありといふ・・・」と読むべきであるとするものもある。

崎嶇(きく)

山道が険しいこと。

十餘町(じふよちやう)

町はわが国の度数で、約109メートル。 

一邱(いつきう)

「邱」は丘。たしかに雄滝に行くには、急な山道を登って丘を越えていく。 

茶店(ちやみせ)

茶屋のこと。「ちゃてん」、「さてん」と読んでもよい。 

望瀑臺(ばうばくだい)

茶屋(茶店)の名前。こんな立派な名前だったのか、あるいは「滝見茶屋」くらいのものを漢訳したのかは不明。現在、雄滝(おんだき)の前面には、コンクリートの観瀑橋がかかっているが、茶屋はない。雄滝の右側の山道を少し登ったところにある「おんたき茶屋」は大正4年の創業で、拙堂の時代の茶屋とは位置的に異なる。なお、明治末ごろの写真をみると、雄滝の前面に屋根付きの木製観瀑橋が写っている。布引の滝そのものは、昔とほとんど変わらない姿だが、周りの建造物はずいぶんと移り変わっている。 

匹練(ひつれん)

一匹の白い布。

掣曳(せいえい)

ひっぱること。 

平臨(へいりん)

「平視」(まっすぐに見る)という意。

奇觀(きくわん)

珍しく、すぐれた景観。

巖角(がんかく)

けわしい岩場。

瀑底(ばくてい)

滝の水が落ちてくる下のところ。大きな滝では、この部分は侵食されて滝壷(瀑潭)になる。

壁面(へきめん)

滝壁(そうへき=漢語では「瀑壁」)の表面。大きな滝は、かたい岩石が侵食されてできるので、垂直にちかい滝壁ができる。

下垂(かすい)

「下垂」は、「たれている」という意だが、ここでは滝の水が落ちてくる意。「布引」の滝は、その名のとおり、落ちてくる水が布が垂れているように見える。元の李孝光の『大龍湫記』にも「始見瀑布垂」の表現がある。

(いか)

勢いや音のすごいこと。石のところで、水がはじけ飛んでいる。「怒涛」の「怒」。

駭珠(がいしゆ)驚玉(きやうぎよく)

「驚駭(おどろく)」「珠玉(宝石)」の二語を「互文」の技法で組み合わせた造語。激しく飛び散る珠玉(宝石)のような水しぶき。

餘沫(よまつ)

その他のしぶき。宝石に比すべき大きなしぶき以外のこまかなしぶきのこと。

霏散(ひさん)

空中に立ちこめること。

(くう)(みなぎ)

あたり一面に充満する。

驟雨(しうう)

突然の大雨。

衣巾(いきん)

衣服と頭巾。

(さか)(なかば)

雄滝(おんだき)から下山する坂の途中に右へくだる道があり、そこを降りて行くと雌滝(めんだき)へ行く。まっすぐ行くとそのまま山を降りてしまう。

土人(どじん)

土地の人。

伊勢物語(いせものがたり)

『伊勢物語』第87段。

平治物語(へいぢものがたり)

平治の乱のことを書いた軍記物語。平清盛が布引の滝を見たときに、悪源太のたたりで落雷にあったという話が出ている。

青谷(あをたに)

摩耶山の参道には、「青谷道(あおたに・みち)」と「上野道(うえの・みち)」があり、現在はどちらもハイキングコースとして親しまれている。ここでの拙堂のコースは、現在の新神戸駅附近から「旧摩耶道」と呼ばれるルートを通り、「青谷道」へ抜け、旧天上寺境内へ行ったもの。帰りは「上野道」の方へ降りている。

摩耶山(まやさん)

六甲山系の中央部にあり、神戸市灘区の市街地に突き出た山である。標高は702メートル(ただし、三角点は標高698.6メートル)。平安時代開創の天上寺があり、古代は信仰の山であった。江戸時代には『攝津名所図会』にも紹介されるなど観光化して、観光客がたくさん訪れるようになった。大正14年にはケーブルカーが開通、昭和34年にはロープウェーが運行を開始している。摩耶山上の「掬星台」という展望広場はもともとは戦時中に高射砲設置のために軍が造成したものだが、ここから見る神戸の夜景は「一千万ドル」と評され、函館・長崎とともに日本三大夜景の一つに数えられている。神戸は他の二つよりも市街地の規模が大きいので、夜景の雄大さは日本一である。

崖樹(がいじゅ)紅黃(こうくわう)(あひ)(まじ)

「崖樹」(崖と樹木)、「紅黃」(赤と黄色)は、「黄崖」「紅樹」を「互文」の技法で組み合わせた語。「相間」は混じっている様子。黄色っぽい岩肌と、紅葉した樹木が混じって見えること。六甲山系は現在では樹木に覆われていて岩肌は見えない。しかし、江戸時代末期から明治初年にかけて、周辺住民の生活資材採集のために樹木が根こそぎにされた結果、ほとんど禿山になっていた。拙堂が訪れたころ、すでに明治初年のような禿山になっていたかどうかは不明だが、現在は樹木に覆われて見えない花崗岩の岩肌が露出していたと思われる。現在の樹木に覆われた山山の姿は明治30年代から営営と行われた植林事業の賜物である。

稜疊(りようでふ)

(前出の崖や樹木が)突起して重なり合う様子。

一歩(いつぽ)一喘(いちぜん)

一歩ごとに息切れしてぜえぜえいう。摩耶山は標高702メートルしかないにもかかわらず、地元の人人も「どこから登ってもしんどい山や」という。もっともそれは歩いて登る場合のことで、摩耶山では、大正14年には早くもケーブルカーが開業して、観光客で賑わった。昭和34年にはロープウェーも出来、ケーブルカーとロープウェーで一気に山頂へ行けるようになった。このケーブルカーとロープウェーは平成7年(1995年)の阪神大震災の後、しばらく休業を余儀なくされたが、平成13年(2001年)に車輛をリニューアルし、「摩耶ビューライン夢散歩」として運行を再開した。

山門(さんもん)

摩耶山天上寺の山門。江戸時代後期に立てられた。山門にたどり着く前に、上記の青谷道と上野道は合流する。

石磴(せきとう)

石でつくられた階段。現在の石段は、明治期に改修されたもの。

(おもて)(かす)

顔すれすれになる、ということで、それほど急な階段だということ。

僧坊(そうばう)

寺院内の僧侶の住居。昭和51年1月の落雷による大火で焼失するまでは、ハイカーの宿所としても利用できた。

(さしはさ)

両側から(動かないように)はさみ込むこと。石段の両側に僧坊が建ち並んでいたので、このように言ったもの。

()

つみ重ねること。

(もとゐ)

建築物の基礎の部分。

數十仞(すうじふじん)

仞は七尺あるいは八尺で、約2メートルにあたる。数十仞は何十メートルかになるが、これは急な斜面に沿って建て継いでいったものを下から見ると高さ何十メートルかになるということ。高層建築ではない。天上寺は昭和51年の大火で焼失したので、現在はこの僧坊を見ることはできない。 

層疊(そうでふ)

幾重にも重なっていること。 

(げん)

荘厳なこと。

城郭(じやうくわく)

もともと城郭都市の囲いこと。ここでは城壁のこと。 

絕巓(ぜつてん)

山頂。ただし、当時天上寺のあった場所は、正確には摩耶山の中腹。

佛殿(ぶつでん)

仏堂。寺のお堂。

宏壯(くわうさう)

規模が大きいこと。現在天上寺の旧境内は、「摩耶山史跡公園」として整備されている。

忉利天上寺(たうりてんじやうじ)

天上寺の正式名称は、「仏母摩耶山忉利天上寺」という。昭和51年1月の落雷による大火で、堂宇のほとんどが焼失し、昭和58年、摩耶別山の山頂付近に移転した。旧境内は「摩耶山史跡公園」として整備され、ハイキングコースとして親しまれている。

經歷(けいれき)

通過すること。

俯瞰(ふかん)

高いところから下を見下ろすこと。

履下(りか)

あしもと。

海灣(かいわん)

大阪湾のこと。

一碧(いつぺき)

青い水面が際限なく広がっている形容。「一碧萬頃」とも。

圍繞(ゐぜう)

輪のようにとりまくこと。「ヰネウ」と呉音で読んでもよい。

()()(さい)(いた)つて、兩間(りやうかん)(あひ)()はず

摩耶山上から見ると、陸地がぐるりと輪のように海を囲んでいるように見える。その輪の西南のはしにあたるのが紀州(和歌山)、ついで大阪、神戸、淡路島とつづき輪の東南のはしが阿波(徳島)となる。紀州と阿波の間は何も無く、海(太平洋)だけが見える。「兩間相合はず」とは、輪のように海を囲んだ陸地が、紀州と阿波の間は切れていて合わさっていないということ。

大環(だいくわん)()くるが(ごと)

上記の紀州と阿波のところで陸地の連続が切れているように見えるのを、大きな輪が欠けているようだと表現したもの。

鵬程萬里(ほうていばんり)

大鵬はひとたび飛べば万里を行くことから、遠く極まりない道のりをたとえる言葉。(『荘子』の冒頭に出てくる鵬の話が出典。)

杳渺(えうべう)

悠遠な様子をあらわす畳韻の語。

正路(せいろ)

摩耶参道の「上野道」を下りた。

盤折(ばんせつ)

「盤旋曲折」の略で、くねくねと曲がっていること。

七曲(ななまがり)

実は、上野道に「七曲」と呼ばれるところはない。赤松円心が六波羅軍を破った「七曲」は、現在の六甲台町(神戸大学本部があり、「赤松城址」の標識が立っている)で、上野道はかなり西にずれている。ただ、当時、上野道が「七曲」だと言われていた可能性はある。現在六甲山系で「七曲」と言えば、六甲最高峰の山頂附近にある長い登り道のことだが、これは赤松氏の「七曲」とはまったく無関係である。

太平記(たいへいき)

『太平記』は建武新政と南北朝争乱を描いた軍記物語。赤松円心が六波羅軍を破った記事は、巻八の冒頭にある。5千の六波羅軍は少数の赤松軍のおとりを深追いしすぎて、山中の「七曲」で身動きが取れなくなったところを、さんざんに矢を射かけられて惨敗し、逃げ帰れたのは僅か千人ほどだった。

赤松圓心(あかまつゑんしん)

赤松円心(1277-1350)は、名を則村(のりむら)という。円心は法名。元弘3年(1333年)、赤松円心は、護良親王の令旨を奉じて挙兵し、摩耶山天上寺を利用して、摩耶山城を作った。そこへ鎌倉幕府の六波羅軍が攻め寄せてきて、上記の七曲の戦いになった。その後勝ちに乗じて京都へ攻め上ったり、逆に大敗を喫して退いたりと攻防戦を繰り広げ、その活躍は『太平記』前半の読みどころの一つになっている。しかし円心は、建武新政における恩賞に不満をもち、寝返って足利尊氏に付いてしまった。

六波羅軍(ろくはらぐん)

鎌倉幕府が京都に置いた出先機関である「六波羅探題」の軍隊。六波羅探題は西国の軍事を統括していた。

行樹(かうじゆ)

列になっている木木。「行」は音「hàng」。 

(さる)

六甲山系には現在サルはいない。しかし、江戸時代にはいたようで、この文章のほかにもサルに言及した史料がある。現在見られる動物は、イノシシ、タヌキ、イタチなど。イノシシは表六甲では餌付けされてしまい、人里まで下りてくるようになっ。(平成14年にイノシシへの餌付けを禁止する条例が出来た。)

纍纍(るいるい)

たくさんいるようす。

上野(うへの)

現在の神戸市灘区西部、摩耶山のふもとの地域。明治22年まで上野村といっていた。 

西宮(にしのみや)

当時は幕府領。西国街道(山陽道)の宿場町として栄えた。

尼崎(あまがさき)

尼崎藩領の城下町。当時は漁業と綿作の町であった。

顧望(こばう)

ふりかえって見ること。

宛然(ゑんぜん)

似ていること。「まるで」。

雲表(うんぺう)

雲の上。

(ひかり)(ゆる)がして(あを)()

摩耶山が作者・拙堂と別れを惜しんでいると擬人化して表現したもの。「山が光線を揺らして、青い光を送ってきた。」ということ。「碧」は樹木の青。摩耶山は、高層建築のない当時は、遠くからでも見えた。

2003年6月1日公開。2010年3月12日一部修正。