日本漢文の世界


曳布(ぬのびき)(たき)()摩耶山(まやさん)(あそ)ぶの()

齋藤(さいとう) 拙堂(せつだう)

  癸巳(きし)晩秋(ばんしう)()攝播(せつぱん)(いう)()り。

  二十二日(にじふににち)(まさ)兵庫(ひやうご)()大阪(おほさか)(かへ)らんとす。(はや)(はつ)し、本路(ほんろ)()いて、()りて生田社(いくたしや)(えつ)す。社樹(しやじゆ)老蒼(らうさう)にして、(ひと)をして肅然(しゆくぜん)たらしむ。

 (つひ)曳布(ぬのびき)(たき)()んと(ほつ)し、右轉(うてん)して砂山(いさごやま)(のぼ)る。崎嶇(きく)十餘町(じふよちやう)一邱(いつきう)()じて、茶店(ちやみせ)()()んで望瀑臺(ばうばくだい)()す。(たき)()(まへ)(あた)る。壁頂(へきちやう)より(なが)(くだ)り、匹練(ひつれん)掣曳(せいえい)せるが(ごと)し。(これ)()()()たる所以(ゆゑん)なり。(ただ)邱上(きうじやう)より平臨(へいりん)すれば、(はなは)だしくは奇觀(きくわん)ならず。(すなは)巖角(がんかく)()んで、()りて瀑底(ばくてい)()き、(あふ)いで壁面(へきめん)()る。(いし)()りて突出(とつしゆつ)し、(たき)下垂(かすい)して、(いし)(いた)つて(すなは)(いか)る。駭珠(がいしゆ)驚玉(きやうぎよく)餘沫(よまつ)霏散(ひさん)し、(くう)(みなぎ)りて()るは、驟雨(しうう)(いた)るが(ごと)し。衣巾(いきん)(ことごと)(うるほ)ふ。(くわい)()(こと)(これ)(ひさ)しうす。(すなは)(かへ)る。(さか)(なかば)()右折(うせつ)すれば、(また)一瀑(いちばく)()り。(さき)(もの)()すれば(やや)(せう)なり。土人(どじん)()んで雌瀑(めんだき)()す、(しかう)して(さき)(もの)(もつ)(をん)()す。()(たき)(すで)伊勢物語(いせものがたり)平治物語(へいぢものがたり)(とう)(しよ)()ゆ。()名勝(めいしよう)()るや(ひさ)し。

  左轉(さてん)すること一里(いちり)(みち)青谷(あをたに)()り、摩耶山(まやさん)(のぼ)る。崖樹(がいじゅ)紅黃(こうくわう)(あひ)(まじ)り、稜疊(りようでふ)して(あい)()し。(しか)るに(みち)(はなは)(けん)にして、一歩(いつぽ)一喘(いちぜん)し、(わづか)山門(さんもん)(およ)ぶ。門内(もんない)(もつと)(けは)しく、石磴(せきとう)(おもて)(かす)めて()つもの數百級(すうひやつきふ)僧坊(そうばう)(とう)(さしはさ)み、(みな)(いし)()みて(もとゐ)(つく)る。(たか)數十仞(すうじふじん)層疊(そうでふ)して(うへ)(むか)ひ、(げん)として城郭(じやうくわく)(ごと)し。(すす)んで絕巓(ぜつてん)(いた)れば、佛殿(ぶつでん)宏壯(くわうさう)たり。(たてふだ)(いは)く「忉利天上寺(たうりてんじやうじ)」と。連日(れんじつ)經歷(けいれき)する(ところ)俯瞰(ふかん)すれば、(みな)履下(りか)()り。海灣(かいわん)一碧(いつぺき)にして、諸州(しよしう)(やま)()(そと)圍繞(ゐぜう)し、()()(さい)(いた)つて、兩間(りやうかん)(あひ)()はず、大環(だいくわん)()くるが(ごと)し。()くるところ()りして(のぞ)めば、鵬程萬里(ほうていばんり)杳渺(えうべう)として(きはま)()し。

 (もん)(いで)正路(せいろ)()き、盤折(ばんせつ)して(くだ)る。()んで七曲(ななまがり)()す。太平記(たいへいき)()する(ところ)の、赤松圓心(あかまつゑんしん)六波羅軍(ろくはらぐん)(やぶ)りし(ところ)なり。行樹(かうじゆ)(さる)(おほ)く、纍纍(るいるい)として(えだ)()かり、(ひと)()(おどろ)(さけ)んで()る。半里(はんり)にして上野(うへの)(いた)れば、(みち)(やうや)(たひ)らかなり。

 西宮(にしのみや)尼崎(あまがさき)()(かへ)れり。摩耶山(まやさん)顧望(こばう)すれば、宛然(ゑんぜん)雲表(うんぺう)()るがごとし。歩歩(ほほ)(わか)れを(をし)めば、(やま)(また)(ひかり)(ゆる)がして(あを)()せ、(おく)つて大阪(おほさか)(いた)れば、(すなは)()みぬ。

2003年6月1日公開。