日本漢文の世界

 

漢訳不如帰



漢訳不如帰について

 『漢訳不如帰』は明治44年の出版です。
 訳者・杉原夷山は、福島県の会津・田島町の人で、明治40年頃上京し、超人的とも言いうるほど大量の著書を増産しています。それらの内容は、陽明学や修養関係の書物が多く、これらは現代においても続続と出版されている人生読本や偉人伝のたぐいです。しかしこのような売るための著作のかたわら、書画関係の辞典の編纂をしているところに志の高さが現れています。夷山が編纂した書画関係の辞典では、『日本書画人名辞典』や『書画落款印譜』が名著といわれ、近年も数社から復刻版がでていることは特筆に値します。

 夷山は、『漢訳不如帰』以外には漢文の作品を書いていません。彼が漢学、とくに陽明学に造詣の深かったことは著書からも分かりますが、彼の唯一の漢文作品が、明治最大のベストセラー小説である徳富蘆花の『不如帰』の漢訳本となったのは、なぜでしょうか?
 この訳書が出版された明治44年には、漢詩文は、もはや誰も省みない時代遅れの文学になっていました。従来の形式で漢詩文を作っても、世の評価を得ることはできなくなっていました。夷山は、いわば「遅れてきた青年」だったのです。
 『不如帰』は、明治33年に単行本が出た徳富蘆花の処女小説ですが、出版直後から大評判となり、明治の小説としては空前といわれる累計30万部を売るベストセラー小説となりました。この訳書が出た明治44年頃には、文壇では自然主義が流行し、『不如帰』は通俗な家庭小説であると酷評する向きもありましたが、それにも関わらず『不如帰』は当時なおたいへんな人気で、ついに百版を超えました。
 夷山は、『不如帰』の評判に目を付けたのかもしれません。たんなる漢文作品では読んでもらえなくても、有名な小説の漢訳となれば、あるいは読んでもらえるかもしれない。そのような計算が働いたかもしれません。
 そして、『不如帰』は、漢訳の腕を試すには十分なドラマ性を備えた作品でした。当時『不如帰』を読む人人は、浪子の運命に同情の涙をそそぎました。夷山もおそらくその一人であり、自分の感動を得意の漢文で表現してみたくなったものでしょう。

 この漢訳作品の特徴は、明治の近代小説を、ほとんど逐語的に漢訳したところにあります。ただし、逐語的とはいいながら、漢文らしくするために、文章の順序を入れ替えたり、説明を付け加えたり、また冗長な部分を大胆に省略したりしています。できあがった漢訳は、漢文らしくまとまっており、訳者の手腕を感じさせる出来栄えです。
 そして訳稿が成ると、夷山は当時有名な漢学者であった信夫恕軒(しのぶ・じょけん)に評を書いてもらいました。恕軒はただ評を書いただけなのか、訳文の添削もしたのか、それは分かりません。しかし、このような試みを面白いと感じたからこそ評を書いたのだと思います。
 この訳稿は、ただのお遊びには終わらずに、出版されました。このような酔狂な書物を出版社が引き受けたのは、夷山がそれまで売れる本を次次と出版していた実績によるものでありましょう。

 版権はどうしたのでしょうか。原作者・徳富蘆花は漢訳を許可したのでしょうか。
 『不如帰』は英訳本等の外国語訳も出ていますから、蘆花が漢訳を許可したとしてもおかしくありません。しかし、蘆花自身が本書の出版に関与した証拠は見当たりません。

 この訳本を出したあと、訳者・杉原夷山は書画の研究に没頭したためか、著書の数も極端に少なくなります。そのため、『漢訳不如帰』のような近代小説漢訳の試みも、これ一作で終わってしまいました。夷山先生苦心の漢訳も、おそらく世間ではそれほど評判にならず、訳者としては不本意だったのかと想像されます。

 夷山は、大正12年の関東大震災を機に、札幌へ移住しました。再び上京してきたのは、昭和12年です。その後は本郷神明町に漢学塾・鶯渓墨社を開き、悠悠自適の生活を送りました。昭和19年、戦災をさけて故郷の会津・田島町に疎開し、同年田島町で没しました。

※原作者・徳富蘆花(とくとみ・ろか)については、中野好夫著『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房 全3冊)および徳富蘇峰著『弟 徳富蘆花』(中央公論新社)の一読をお勧めします。『不如帰』は岩波文庫にも入っており、容易に入手できます。


2009年9月6日公開。

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