日本漢文の世界

 

漢訳不如帰



徳富蘆花の『不如帰』について

 『不如帰』(ほととぎす)は明治のベストセラー小説です。ここでは先達の評論や作者である徳富蘆花の妻・愛子の述懐を引用して、『不如帰』がいかなる作品であるかを見ていきます。
 亡父の恩師・猪野謙二氏は『不如帰』について、『明治文学史 下』(講談社1985年)で次のように紹介しています。

 才気燥発の現実主義者である兄蘇峰に対して、幼少時から格別の「負け犬」意識を抱きつづけ、民友社入社後も鳴かず飛ばずの一無能社員として長らくその屈辱と孤独の境涯に堪えてきた蘆花が、はじめて自己の存在を同社の内外に明らかにすることができたのは小説「不如帰」の成功によってであった。これは三一年一一月から翌三二年五月にかけて「国民新聞」に連載され、大幅の改訂を加えたその初版が三三年一月に刊行されてからひろく世間の迎えるところとなり、そのころの紅葉の「金色夜叉」と並ぶ空前のベストセラーとなった。またやがて、これが新派劇の代表演目となったということもあって、その人気は大正昭和に及び、民友社版だけでも百九十二版(昭和二年)、五十万部を売り尽したという。(同書74頁)
 猪野氏はまた『不如帰』の主題について、次のように述べています。
 この一篇の主題が封建的家族制下のか弱い女性の立場からの訴えにあるのはいうまでもない。これが広く迎えられた理由としては、たしかにたとえば嫁と姑との問題や継母と継娘との関係など、常套のいわゆる新派悲劇風な道具立てが満都の子女の紅涙を絞らせたということもあった。また、女主人公の肺結核という当時は不治とされていた病気が、いわゆる「七去」の一ヵ条「悪疾あれば去る」という封建道徳の冷酷さと結びつけて受けとられたこと、またそれが、当時の劣悪な労働条件のもとで同じ病気で数多く斃れていった紡績製糸女工などの間にまで他人事ならぬ同情を惹き起した、という見解などにも聴くべきだろう。しかし同時に、作者の動機がそうした一般的な問題意識や社会観察などよりは、むしろより直截に、かれ独得のぬきさしならぬ正義感の激発にもとづいていた、という直接の作因を見逃すことはできない。そしてこれが、よかれあしかれ蘆花の小説のほとんどすべてに通ずる基本的な創作態度にかかわるものだったのである。(同書74頁)
 大岡昇平氏は、『日本の文学5』(中央公論社1968年)の解説において、「不如帰の問題」と題して次のように述べています。
 「不如帰」は元帥大山巌の娘信子と枢密顧問官三島通庸の息子との結婚が、信子の肺結核のため不縁となった事件をモデルにしたものである。蘆花は三十一年夏逗子に避暑中、信子を知る婦人からその哀れな境遇を知り、構想を得た。結核は当時は不治の病であり、伝染することも知られていた。両家で合意の上実家へ引き取ったのであるが、信子は夫を慕って三島家へ帰りたがった。無断で帰ることもあったので、三島家では息子に新しい嫁を捜して、信子に帰れないようにした。信子は嘆きつつ死んだというのが実話である。
 日清の戦勝後、軍人の社会的地位は高く、その家庭の事情は世間注視の的であった。小説はまずモデル小説として受け取られ、蘇峰もそのように考えていたのだが、実作品は強い感情的アピールを持っていたのであった。「もう二度と女なんかに生れはしない」と信子はいったという。これは少し言葉をかえて、「不如帰」のヒロイン浪子の口に移される。妻に離婚を要求する権利なく、夫は重大なる理由なく三下り半を投げつければ事がすんだ古い離婚制度に対する反抗であった。低い地位におかれた女性のプロテストとして一葉の「十三夜」と同じアピールを持っていたのである。
 さらに蘆花は夫武男を浪子に同情的に作り、一篇を相愛する夫婦の悲劇とした。夫婦が揃って外を歩くのが珍らしかった当時にあっては、これは夫婦の人間的交情を書いたはじめての小説であった。そのようにして、若い読者に読まれ、また娘を持つ父にも読まれていたのである。
 地の文は文語体であるが、一葉のように擬古文的屈折はなく、明快である。蘆花はトルストイの「アンナ・カレーニナ」などを読むことにより、人間をその心理と肉体の外部的徴候を併せて描く手法を学んでいた。心理分析は深刻なものではなく人情的で常識的であったが、それだけにわかりやすく一般に受けたのであった。
 「不如帰」は「新派」の当り狂言となり、外国語に翻訳されて、当時最も多数の外国に紹介された小説となった。
 『不如帰』は蘆花と妻・愛子の共同制作になるものでした。その制作の事情について、愛子は次のよう述べています。原文は旧字・旧仮名ですが、現代表記に直して引用します。(「蘆花と共に――私の歩んだ道(徳富愛子述 神崎清記)」 明治文学全集42『徳富蘆花集』(筑摩書房1966年)に採録)
逗子海岸
 明治三十年一月、逗子の柳屋の座敷を借りて、ただ二人だけの生活をはじめてから、主人の機嫌もよくなり、楽しい平和なスウィート・ホームを営むことができるようになっていました。思出の深い逗子の町――その頃の逗子は、草葺の家のまばらな静かな漁村で、主人の『青山白雲』や『不如帰』や『自然と人生』の生まれたところでありました。
 その時分、主人はロシヤの文豪トルストイに興味を持っていまして、伝記を書いていましたが、「自分は、正直なところが、正しい人となり度いと望んで居たのだが、年は若いし、情慾はあり、その上徳義を求めるにも唯吾一人であって、真に正しい生涯をしようとすると、軽蔑嘲笑に逢い、下等の情慾にまければ却って誉められ奨励された」とあるあたり、ト翁の紹介を借りて、主人が自分自身の悩みを告白したものではなかったでしょうか。「真に正しい生涯をしようとすると、軽蔑嘲笑に逢い……」ほんとうに、その通りだったと、読みかえしてみて、痛ましくさえ思われるのでございます。
 尤も、当時の私には、それほどの深い意味はわかりませんでしたけれども、主人の心になにか私だけでは満されない悩みがあって、ともすればほかにあこがれるもののあることが、うすうすわかって参りました。妻としてこんな淋しいことはありません。主人の書いた『漁師の娘』の話にも、そうしたあこがれを感じてきて、とてもうれしくは読むことができませんでした。
 それに、結婚して四年にもなるのに、子供の授からない淋しさが、私の内部に大きな空洞(うつろ)をつくっていたのでしょう。妻としても母としても資格のない自分自身が、たまらなくいやになってきて、主人の留守中、ある夜、多胡江川(たこえがわ)の川口の石垣の上にひとり立って、「水は私をどこへ連れて行ってくれるだろう」と、じっと暗い海の面を見つめたことさえありました。身ぶるいするような自己嫌悪――あんなに無邪気で世間知らずだった私にも、女としての自覚や反省が、そろそろ芽をふいてきたのでありました。
 淋しい逗子の町も、夏になれば東京から避暑客が押し寄せてきて賑わいます。明治三十一年の夏、私どもの隣の部屋に福家安子(ふけ・やすこ)という未亡人の方がお見えになりましたが、話しずきの婦人で、なくなった御主人が大山巌大将の副官を勤めておられたところから、身の上話はいつの間にか、大山家の内情や、離縁になった長女の信子さんのことに移っておりました。
 信子さんが子爵三島家から肺結核で離縁されたこと、夫君の弥太郎氏が悲しんだこと、大山大将が怒って娘をひきとり、邸内に静養室を建てて養生させたこと、この世の名残に信子さんをつれて京阪旅行に出かけたこと、死んだとき三島家からよこした葬式の生花を突きかえしたこと――福家さんは鼻をつまらせながら、しみじみと物語りました。日はいつの間にか暮れて、室内が薄暗くなってきたのに、私ども夫婦は、ランプもつけないで、じっと聞き入っておりました。
 話題に上っている信子さんは、実は一度お目にかかったことがあるのです。私がまだお茶の水の生徒であった時代、舎監の山川二葉(やまかわ・ふたば)先生(大山捨松夫人の姉上)に連れられて、大山邸に見学に行き、茶菓(さか)のおもてなしをうけましたが、そのとき私たちを接待して下すった美しい振袖姿のお嬢さんが、こんな悲劇の主人公になられていようとは!
 福家さんは、信子さんのあわれな臨終の模様を詳しく語って、「そうお言いだったそうですってね――もうもう二度と女になんか生れはしない」といいかけて、すすり泣いてしまいました。私も悲しくなって、もらい泣きをいたしましたが、片膝を抱いて床柱にもたれながら、じっと眼を閉じて聞いていた主人は、そのとき、不意に電撃に似たインスピレーションに打たれて、思わず「小説だ」と心のなかで叫んだのでありました。
 思えば、主人の小説家志願も長いものでございました。それを兄の蘇峰に押えられたかたちで、心に染まない翻案や翻訳ものばかり書いて面白からぬ月日を送っていた主人が、この夜の物語にヒントを得てから、新しい感興が泉のように湧いてきて、最初の長篇『不如帰』の執筆にとりかかりましたので、求められるままに、私もよろこんで助力いたしました。

不如帰
 先ずヒロインの名前ですが、私ども新婚の年、主人とこの逗子の海岸を散歩していまして、可愛らしい小指の先ほどのナミコ貝を見つけ、「女の子が生まれたらナミコとつけましょうね」と囁きあった、そのとっておきの大事な名前を、惜し気もなく与えました。大山に対する片岡、三島の三をたてにした川島、ヒーローは、横須賀線でよく見かける立派な青年士官、軍人のことですから勇ましい武男という名前をつけました。時代の背景を日清戦争にとって、海戦の場面の描写もあり、軍部と御用商人の関係にもふれておりますので、一種の戦争文学とも申せないことはありません。
 書出しは――この春二人が結婚第五回記念に、ガタクリ馬車に揺られてのぼった伊香保の山を舞台にして、やはり二人の泊った同じ「千明(ちぎら)」へ、小説中の夫婦に新婚旅行をさせてやりました。「上州伊香保千明の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九。品(ひん)よき丸髷(まげ)に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬(こもんちりめん)の被布(ひふ)を着たり……」この小紋縮緬も、主人から相談されて、私の晴着を着せてやったのでありました。
 小説の会話に使う女の言葉にも、主人は困っておりました。「そんなに景色がよろしいんですか。行ってみたかったですわね――これじゃ、硬くて感じがでない。お前、ここんところお嬢さん風に話してごらん。――そんなに景色がようございますの、行ってみとうございました――なるほど」私もも一度昔のあどけない女学生に若返った気分になり、浪子になったつもりで、つぎつぎに、言葉を拵(こし)らえていました。小説のなかにある、「恋しき恋しき武男様」あての浪子の手紙も、主人に読んでもらうのが楽しく、私が自分で筆をとって書いたものでございました。
 浪子は病気で死にましたが、生き残った武男をどうするか、という問題で、主人は大分苦しんでいたようで、そのために草鞋(わらじ)ばきでわざわざ沼津在の片岡中将の別荘を見に行ったこともありました。
 結局、死んだ浪子を夫の愛のなかに生かし、生き残った武男を強くして「愛は死よりも強し」という光明の境地に導いて、この悲劇の幕を閉じたのでありました。そうした解決にも、主人の夫婦観・恋愛観がよくあらわれていましたし、三島母堂の冷たい眼から若い妻を庇おうとする武男の気の弱い人道主義にも、日頃の主人の家庭観が顔を出していましたので、主人の母は「年寄の気持がわかっていない」と独語して、少し不機嫌な様子でございました。
 そんなわけで、この『不如帰』は、よくモデル問題で騒がれますけれども、右に申し述べました通り、信子さんの事件にヒントを得たほか、大半は私どもの創作でありまして、「子無し夫婦の最初の子供」と申した方がよろしいかも知れません。国民新聞に連載中も、幸い好評を博していましたが、単行本になってから、一そう評判の高いものになってきました。
 よく新派悲劇などに上演されますため、単なる通俗小説のようにお考えになる向きもあるようですが、それでは主人があまり可哀そうだと思います。
 主人は、封建的な家族制度の下における新旧思想の衝突という基本的な問題をとりあげて、保証されない妻の地位を擁護したのでございます。
 この『不如帰』は広く海外にも反響を起しまして、各国の言葉に翻訳されましたが、英訳されてアメリカへわたりましたとき、彼の地の批評家から「日本のトルストイなる徳富は、『ナミコ』に対する同情ある取扱いにおいて、彼が目的を達成すると共に、高潔至誠なる人道擁護者たることを示し得た」とか、「これは日本の家庭生活を如実に描き出した唯一の英語小説であって、わがストウ婦人が黒奴の描写と同じく、日本の女性解放に貢献するところがあるであろう」とか、社会小説として正しい評価を得たのでありました。
 けれども、浪子の境涯を、私の身に引きくらべてみた場合はどうなるでしょうか。
 なるほど主人は、複雑な家族関係の重圧からは、よく私を守ってくれましたが、その主人と私との関係においては、自分の意思を自由に発表する力を持たぬ消極的な浪子の悲劇は、決して人事と思われないのでありました。
「もうもう二度と女になんか生まれてはこない」と、絶望的な自己否定の言葉を残して、一度小説のなかで死んだはずの浪子が、また立ちあがって歩きだしました。
 そのとき私は、主人のそばにぴったりと寄りそって、その大きな愛のなかに、もっともっと強く生きて行かねばならぬ、と考えるような女になりかけていたのでございます。
 『不如帰』のモデル問題については、いろいろと論じられてきました。「明治の大衆文学」をテーマとした柳田泉、勝本清一郎、木村毅、猪野謙二の四氏による座談会では、次のように言及されています。(柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二編『座談会明治文学史』所収。岩波書店1961年 504-505頁)
勝本 一応当てた大衆文学作品というものは、やっぱり大衆のなかにある要求に答えるある要素は持っているんですね。それがなければ社会的にはじめからアッピールしない。蘆花の「不如帰」なども今日僕なんかどうしたって読めませんよ。それでいて明治時代の婦人問題の社会的大水脈を突いていることだけは認めざるを得ないんです。ただ作品のできばえとしては今日から考えるとずいぶんお粗末なおかしなものでしょう。あの小説で蘆花は愛情を主にした新時代の夫婦の結合を理想として掲げているけれども、こしらえものの木偶の坊ばかりでそれを打ち出しているところに、如何ともしがたい根本欠陥があります。神崎清君がこの作のモデル関係を調べたことがありますね。ああいう作品はすぐモデル問題と結びつけられて、大衆のほうでも大山家と三島家のことだと言った具合に小説を思って読んだり、芝居を見たりしたけれども、事実に結びつけてみると、かえって小説のお粗末さがわかるんです。実際とは非常に距離がある。名誉棄損の人権問題を別とすればモデルと小説に距離があって悪いということはないが、この場合はこの距離が余りに非現実的な、非人間的な距離で、作品をただただまずいものにしているんです。もしも蘆花がもっとあの事件を研究して書けば全くちがったもの、かえって遥かに面白い作品になったでしょう。たとえばあすこへ出てくるおっ母さんがただ鬼婆ァとして描かれているということ、そのことが浅くて、非人間的で、かえっておかしいのです。現実には三島弥太郎の母の和歌子はむしろ鬼婆ァではなかったかも知れない。つくりものの家庭小説としても、むしろ鬼婆ァでない揚合をとらえたほうが人間味のあるいい文学になる。神崎君の研究によれば大山家の主治医の橋本綱常が三島家からの念押しに対して大山信子に病気はないんだという断言をした。それで結婚が成立したわけなんです。ところが結婚してみると、次の日あたりからお嫁さんは咳ばかりしている。そこで三島家のほうの主治医の高木兼寛が診察をしてみると、昂進性の肺結核だとわかった。陸軍の軍医の証言と海軍の軍医の診断とが食いちがったわけです。そこがもめごとのいちばんの根本なんです。陸軍側の大山厳のほうがおこって、国許から信子の叔母が出て来たからと言って、信子を引きとってしまって三島家へ頑として返さなかったというような、そういう事情もあるんですね。そういう事情のほうがかえっておもしろいんだ、僕たちから言えば。いや、大衆小説としたってその方がおもしろいのに、そういうほんとうの現実社会にあるおもしろさを蘆花はお粗末な創作態度でむしろ逸しているんですね。
木村 あれは福家という大山さんの副官の中佐の未亡人に偶然蘆花が会って話を聞いただけで書いたから、取材が非常に一方的な伝聞に偏したんです。
柳田 僕らが学生時代、僕らの保証人の下宿しておった大家のばあさんが信子の女中だった。信子がお嫁に行くときにくれた形見だとか写真だとか、そんなものをどっさり持っておった。僕らに見せて、その写真なんか僕にくれるくれると言った。もらっておけばよかったけれども、そのころだから、そんなものをもらったってしょうがないと思っていた。それと帯、中帯ですが、女中が十二人おった、その十二人の女中にみな一本ずつくれた、同じ帯を。それを大事にしまっておった。信子の写真を見ると、信子さんというのは非常に大山さんに似ておって、器量はあまりよくなかった。可憐な人であったらしいけれどもね。
勝本 モデル問題なんかに触れると、あの作の不完全さがはっきりするし、作家が作品でモデルを暗示している場合、モデルの人権問題、作家の社会的責任問題などもあって、作家の側ばかり是認できないと思うけれども、それにもかかわらず「不如帰」が小説としても芝居としても明治の社会にもてはやされたのは、やはりあの作のテーマが、当時の実際の女性のなかにあった内面の要求にピタッと入っていたのですね。ただしそれだけなんですよ。時代の、時という要素にふれるところがあるか無いかが大衆文学の生命点なんでしょうね。
猪野 つまり、いちおう女性の解放という問題がおぼろげながら出てくるから、それは決して貫徹されやしないんだけれどもやはり話題になるわけですね。
 中野好夫氏は『蘆花徳富健次郎 第一部』(筑摩書房1972年)で、『不如帰』のモデル問題について、次のように言っています。
 たしかに「不如帰」にはモデルがあった。根幹は、さきにも述べた福家安子未亡人の一夕話である。だが、果してそのことだけで、この作品をいわゆるモデル小説と呼ぶべきであるか。わたしの答は、はっきりいってノーである。たとえば、この作をつくるにあたって、その後蘆花がどこまで素材の事実を調べたかとなると、ほとんど皆無といってもよさそうである。第百版巻頭に添えられた蘆花自身のまえがきに見ても、その後福家夫人に接触した形迹はまったく見えぬし、さりとてほかに調査をした証迹もない。わずかにこの社会的事件と蘆花夫妻とをつなぐものといえば、かつて愛子夫人が女高師在学のころ、大山中将夫人(山川捨松)の姉山川二葉が、たまたま寄宿舎監をしていた縁というので、一度青山穏田の大山邸を拝観したことがあり(前日、明治天皇の大山邸行幸があったのだ)、そのとき給仕役に出た振袖姿の令嬢が、はからずも後日の「浪子」、大山信子であったという偶然や、これまた「不如帰」に「道(みい)ちゃん」の名で出る捨松夫人の実子、つまり、「浪子」の異母妹久子に、その後愛子が「教鞭をとった事」があるということで、多少この哀話に他人事(ひとごと)ならぬ関心を感じたかもしれぬということ、さらには一度、沼津在我入道(がにゅうどう)にあった大山家の別荘を「他(よそ)ながら覗いて」見たくらい以外には、特に素材調査をした様子はまったくない。(しかも最後のこの話などは、小説の結末に苦しんだ揚句、上にも述べた四月末から五月はじめにかけ、ぶらりと熱海を中心に遊んだときの瞥見である。わずかに別荘の垣のぞき程度が、調査などといえたものでないことはいうまでもあるまい。)
 だが、では、なぜ蘆花は「不如帰」を書いたか?これも答は簡単であろう。福家夫人の話の中の、あの「もうもう、わたし二度と女になんぞ決して生れはしませんよ」という一言があったからだけにすぎぬ、とわたしは思う。だからこそ、「小説だ!」と閃いたのである。(同書369頁)
 そして、中野氏は『不如帰』について、次のように総括しています。
 日本の古い家の中での女――この重大な問題と真剣に取り組んだ意味では、たしかに「不如帰」は先駆的作品であり、今日もなおその意義を失っていないはずである。
 但し、果して初出以来、そうした意義でこの作品が長くベスト・セラーをつづけてきたのだろうかという問題になると、かなり大きな疑問があり、それには作者自身にもかなり責任があるはずである。というのは、そこが例の「善人帳」「悪人帳」の手口で、一度読めばすぐわかるが、継母の繁子(捨松夫人)も姑のお慶(三島和歌子)も、実に単純な新派的継母根性、姑根性で割り切られてしまっているからだ。つまり、本来の重要主題であるべき問題が、他愛もなく嫁姑関係のお涙頂戴の物語に押し流されてしまう、そうした誤読の種を、実は作者自身蒔いてしまっているのである。果して蒔いた種は、彼自身刈り取らねばならなかった。もともと姑対嫁というこの主題、この国の精神湿潤風土にあっては、おそろしく古くて、しかも新しいのだ。最近のあの有吉佐和子の佳品「華岡青洲の妻」すらが、麻酔外科という先覚者的医師の苦悩と業績などはそっちのけにして、完全に嫁対姑の興味にすりかえられ、芝居に、映画に、あれよあれよというまに大ベスト・セラーになってしまったのと同断である。その意味では、大山、三島両家ともに不快を感じたのは当然であり、そればかりか、母の久子までが読んで、「あんなものが、そんな評判になるのかなァ」と吐き出すように言って、健次郎を勃然とならせたという挿話まであるほどであった。(「冨士」第二巻第十七章(三))(同書370頁)

※徳富蘆花(とくとみ・ろか)については、中野好夫氏による渾身の評伝『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房 全3冊)および徳富蘇峰著『弟 徳富蘆花』(中央公論新社)の一読をお勧めします。『不如帰』は岩波文庫にも入っており、容易に入手できます。


2022年8月31日公開。

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