日本漢文の世界

 

頼山陽の故居・山紫水明処訪問



9.山陽先生在世当時の山紫水明処

 現在残っている「山紫水明処」は、山陽先生の居宅であった「水西荘」の一部にすぎません。では、先生在世当時の姿は、どのようなものだったのでしょうか。前述した『史跡 頼山陽の書斎 山紫水明処』(工学博士 岡田孝男著)に、復元図が載っています。

頼山陽書斎「山紫水明処」復元図
『史跡 頼山陽の書斎 山紫水明処』(工学博士 岡田孝男著) 7ページの図

 山陽先生在世当時の水西荘は、図のように11間×13間の敷地に合計7棟の建物が建っており、離れの「山紫水明処」は、本宅と竹の廊下でつながっていました。

頼山陽書斎「山紫水明処」写生図
坂本箕山著『頼山陽』744ページの図。
右下に描かれている数棟の建物が水西荘です。

頼山陽書斎「山紫水明処」明治頃の写真
坂本箕山著『頼山陽』746ページの写真。
明治末年頃に葺き替えるまでは、
屋根が丁字状に葺かれていたことが分かります。

 その様子は、明治32年に水西荘を訪れた坂本箕山(さかもと・きざん)が、著書『頼山陽』(敬文館、大正2年刊行)に、次のように記しています。これは解体前の本宅があったときに水西荘を訪問した貴重な記録です。(現代表記に直して引用しています。)

 本書(ほんしよ)著者(ちよしや)は、明治(めいじ)三十二年(さんじゆうにねん)五月(ごがつ)十六日(じゆうろくにち)京都(きようと)(あそ)び、頼龍三(らいりゆうぞう)()案内(あんない)にて、()水西荘(すいせいそう)(いた)り、(した)しく見廻(みまわ)った(こと)がある。山陽(さんよう)書斎(しよさい)であったのは、鴨川(かもがわ)(のぞ)んだ二畳半(にじようはん)(じき)一室(いつしつ)で、丸窓(まるまど)も、(あか)障子(しようじ)も、建具(たてぐ)一式(いつしき)(むかし)のままにて、(とこ)(かべ)打附(うちつ)けの麁末(そまつ)なるものであった。(にわ)(ひろ)く、山陽(さんよう)手植(てうえ)桐木(きりのき)()(しげ)らせて()た。()(しつ)には『煙雨(えんう)楼台(ろうだい)(大字)丁巳(ひのとみ)孟夏(もうか)念七日(ねんしちにち) 三樹坡(みきは)楽寿亭(らくじゆてい)(しよ)す 旭荘(きよくそう)(けん)』との(がく)(かか)げてあった。山紫水明処(さんしすいめいしよ)は、(これ)より竹縁(ちくえん)(つと)うて(いた)る、本家(ほんけ)(はな)れたる一室(いつしつ)にて、四畳半(よじようはん)(くらい)二畳(にじよう)ばかりの(いた)()(あい)(せつ)し、天井(てんじよう)阿家形(あずまやがた)(よし)()り、(とこ)違棚(ちがいだな)ありて楣間(びかん)には『山紫水明処(さんしすいめいしよ)(大字) ()山陽(さんよう)(おう)旧宅(きゆうたく)なり。(しよ)(おわ)(むかし)(ゆう)(おも)いて(これ)(ため)愴然(そうぜん)たり、(とき)安政(あんせい)四年(よねん)丁巳(ひのとみ)復月(ふくげつの)(ぼう) 七十三叟(しちじゆうさんそう)海仙(かいせん)』と()いた(がく)(かか)げられ、違棚(ちがいだな)小襖(こぶすま)にも、海仙(かいせん)書画(しよが)があり、唐様(からよう)欄干(らんかん)(した)鴨川(かもがわ)清流(せいりゆう)で、(はるか)三十六峰(さんじゆうろつぽう)(へき)(たい)し、(こころ)ゆくばかり閑雅(かんが)(ところ)である。()く、此処(ここ)山陽(さんよう)宅価(たくか)(ぎん)五貫匁(ごかんもんめ)(きん)八十三両(はちじゆうさんりよう)()()うたそうだ。山陽(さんよう)(かか)(ところ)()み、(とこ)には屠隆(とりゆう)書幅(しよふく)()け、(まえ)なる古銅(こどう)花瓶(かへい)には四季(しき)折折(おりおり)(はな)()し、卓上(たくじよう)には(みん)王嶼(おうしよ)(ひつ)江南(こうなん)春暁(しゆんぎようの)()画巻(がかん)()せ、紫質(ししつ)緑眼(りよくがん)海龍(かいりゆう)()りたる(すずり)に、三足(みつあし)蟾蜍(かわず)(かたち)したる古銅(こどう)水滴(すいてき)水晶(すいしよう)文鎮(ぶんちん)伊予産(いよさん)研山(けんざん)南蛮(なんばん)舶来(はくらい)古銅(こどう)筆洗(ふであらひ)さえ()えて、(つね)(ふで)()り、諸種(しよしゆ)著述(ちよじゆつ)詩作(しさく)書画(しよが)揮毫(きごう)門生(もんせい)教育(きよういく)をなしたのである。(同書743ページ)



2007年12月30日公開。

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