日本漢文の世界

 

中江藤樹の講堂跡・藤樹書院訪問



15.中江藤樹記念館(10) 翁問答(1)

翁問答
記念館展示 翁問答

【翁問答】

 記念館には、藤樹の代表作である『翁問答(おきなもんどう)』の版本が展示されています。『翁問答』は達意の和文で書かれており、簡単な注釈があれば現代語訳なしでも読むことができます。
 『翁問答』は、師匠の天君(てんくん)と、弟子の体充(たいじゅう)の問答という形式で作られた問答体の著作です。(「天君」「体充」はともに『孟子』を出典とする名前です。)
 問答体といっても、プラトンの対話篇のように師弟間で対等な問答が展開されるわけではなく、弟子の体充はただ問いかけるだけの存在であり、体充が問いかけた問題に対して師匠の天君が長い議論を展開して答えるという構成になっています。ようするに議論を分かりやすく整理するために問答体を用いたのであり、プラトンのように対話の過程を重視しているわけではありません。
 わが国における問答体の歴史は古く、平安時代初期の伝教大師・最澄の『決権実論(けつごんじつろん)』(岩波書店の『日本思想大系4 最澄』に所収)を嚆矢(こうし=始まり)とし、当初はもっぱら仏教の教義論争に使用されていました。時代が下り江戸時代になると、議論の書を問答体で書くことが一般化し、『○○問答』と銘打つ書物が山ほど作られます。『翁問答』もその一つです。ちなみに藤樹の弟子である熊沢蕃山が書いた『集義和書』も、往復書簡の形式を取っていますが、問答体の著作です。

翁問答
記念館展示 翁問答
S氏撮影

【翁問答の内容】

 『翁問答』の内容は、「孝」の大事を強調し、「孝」がすべての中心であると論ずるものです。これは藤樹独自の思想です。
 『翁問答』では最初に「孝」が一番大事なことであると論じます。「孝」の中にすべての徳が収まっており、そこからすべてが始まります。(第2問 以下、問い番号は岩波文庫版によります。)
 「父母の恩徳は、天よりも高く海よりも深し。」(第13問) 藤樹の考えでは、人倫の根本は「孝」であり、「孝」から全てが派生していきます。
 「父母の恩は広大無類にして恩の大根本なり。然るゆえに、父母を愛敬するを本として、おしひろめて余の人倫を愛敬し、道を行うを孝といい、順徳という。」(第13問)
 また、学問には正真(しょうじん)の学問と贋(にせ)の学問があります。贋の学問を藤樹は「記誦詞章」と名付けています(第19問、第20問)。四書五経などを丸暗記して物知りであることを誇り、立派な文や詩を作って名利を求めるペダンティックな学問です。名利の心を藤樹は「魔」と呼びます。贋の学問をすると魔境に陥り、義理を忘れ、人の道に背いて「畜生道」に落ちるのです。(第53問)
 これに対して正真の学問とは、同じ四書五経を学んでも、そこに現れた聖賢の心を我が心とすることを目的とする「心学」です。心学を体得した者は、心に大富貴を得るので、たとい現実生活において不遇であっても、心には大幸福を感じます。たとえば孔子は生涯流浪の身であり、その弟子の顔回は陋巷(ろうこう=貧民街)で貧乏暮らしをしていましたが、心は誰よりも豊かでした。(第24問)
 また、学問する者は武術を軽視する者が多いが、それは間違いであり、文・武は、仁・義と同様に一体のものであり、文・武はどちらも大事なものだと説いています。(第27問以下)
 さらに、仏教を排斥し、釈尊を「狂者」(常識のない理想主義者)と誹謗しています。(第77問以下)
 本書では激越な仏教批判が繰り広げられていますが、主殺し・親殺しの極悪人も念仏を唱えれば往生できるなどといった念仏宗の教義や、黄檗(おうばく)禅師が母親を殺したことを真の孝養だと強弁する(第83問)などの祖師たちの悪行に加え、大寺院はことごとく悪僧奸僧の巣窟と化していた当時の仏教界の淫逆無道ぶりは歴史をひもとけば明らかなところであり、藤樹が強い嫌悪感をもったことも理解できるのです。
 こうした当時の仏教界に対する絶望感から儒学への期待が高まったのがこの時代の雰囲気だったのです。



2024年12月7日公開。

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