記念館展示 孝経啓蒙
【孝経啓蒙】
藤樹は儒教経典の中では『孝経(こうきょう)』を最も重視し、『孝経』の注釈書『孝経啓蒙』を作りました。
『孝経』は代表的な儒教経典である「十三経(じゅうさんぎょう)」の一つです。孔子の弟子の中で孝行にすぐれていた曽参(そうしん)と孔子との「孝」に関する問答を記録したものとされており、作者は孔子自身説、曽参説、曽参の弟子説などがあります。
『孝経』の内容を簡単に述べます。
冒頭に「孝は徳の本(もと)」であるとし、「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう=傷つけること)せざるは孝の始めなり」との有名な言葉があり、親からもらった自分の体を大事にして怪我や病気をしないようにすることが孝行の始めだとしています。そして、立派な人物となって後世にも名を残し、父母の名誉となることが孝行の終わりです(開宗明義章第一)。天子の孝行は博愛(天子章第二)、諸侯の孝行は謙譲と節制(諸侯章第三)、卿大夫の孝行は適正な行い(卿大夫章第四)、士人の孝行は父母に仕え、君主に仕えること(士人章第五)、庶人の孝行は父母を養うこと(庶人章第六)です。
そして、「孝は天の経(けい)なり、地の義なり、民の行(こう)なり」として、孝行をもとにすれば天下泰平となると説きます。親孝行こそは人倫の根本です。(三才章第七→『孝経啓蒙』の甚哉章)
さらに、「人の行(こう)は、孝より大なるは無し」とて、孝行こそは最大の徳行であり、君主がこれを励行すれば、国民は従順になり、天下泰平となるとしています。(聖治章第九→『孝経啓蒙』の敢問章)
孝行の実践には、親や君主を諫めることも必要で「争臣(そうしん)」(君主が悪いことをしているときに諫める臣下)、「争子(そうし)」(親が悪いことをしているときに諫める子供)がいれば、その国や家は安泰となります。(諫争章第十五→『孝経啓蒙』の若夫章)
最後に親の葬儀や服喪について述べています。(喪親章第十八→『孝経啓蒙』の若夫章)
御注孝経
冨山房の『漢文大系』第五巻
『孝経』には「今文(きんぶん)」・「古文(こぶん)」という二つの代表的テキストがあります。「文」とは文字のことです。「今文」は隷書(れいしょ)という当時(漢代)の文字で書かれていたから「今文」といいます。「古文」は、孔子の家を修理するときに壁の中から出てきたもので、隷書よりも古い周代の文字で書かれていたので「古文」と呼ばれたのです。
どちらのテキストも秦の始皇帝による焚書によりいったんは滅びましたが、後に発見されて世に出たものです。
漢代から「今文」と「古文」のどちらのテキストを正統と認めるべきか論争があり、決着しませんでした。のちに唐の玄宗皇帝が「今文」の『孝経』に自ら注釈を書き『御注(ぎょちゅう)孝経』(冨山房の『漢文大系』第五巻に所収)を作ると、これが『孝経』の最も権威あるテキストとなった経緯があります。
藤樹は「今文」を主としつつ、「古文」にしかない「閨門章」を加えた独自の本文テキストを作成しています。
孝経啓蒙 | 御注孝経 | 古文孝経 |
(章名なし) | 開宗明義章第一 天子章第二 諸侯章第三 卿大夫章第四 士人章第五 庶人章第六 | 開宗明誼章第一 天子章第二 諸侯章第三 卿大夫章第四 士章第五 庶人章第六・孝平章第七 |
甚哉章 | 三才章第七 孝治章第八 | 三才章第八 孝治章第九 |
敢問章 | 聖治章第九 紀孝章第十 五刑章第十一 広要道章第十二 広至徳章第十三 広揚名章第十四 (閨門章は今文にはなし) | 聖治章第十 父母生績章第十一 孝優劣章第十二 紀孝章第十三 五刑章第十四 広要道章第十五 広至徳章第十六 広揚名章第十八 閨門章第十九(『孝経啓蒙』に加えてある。) |
若夫章 | 諫争章第十五 応感章第十六 事君章第十七 喪親章第十八 | 諫争章第二十 応感章第十七 事君章第二十一 喪親章第二十二 |
江戸幕府が奨励した朱子学では、『孝経』は後代の偽作だとして重視しませんでした(朱熹『孝経刊誤』)。そのため、わが国で奈良時代から続いてきた『孝経』の学習は廃れてしまいました。そうした中で、『孝経』を最重要経典に据える藤樹の儒学は独自のものです。
『孝経啓蒙』は『孝経』の本文を引用し、その後に語句の説明や解釈を漢文で書くという伝統的な経典注釈書のスタイルを踏襲しています。このような注釈書としてのスタイルや、漢文という表現手段にしばられずに、自己の「孝」の哲学を思う存分に展開するためには、『翁問答』のような和文での著作が藤樹には必要でした。
2024年12月7日公開。