村井弦斎著『近江聖人』
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1919887
【村井弦斎著『近江聖人』】
「皹(あかぎれ)妙薬の話」は、明治25年(1892年)に博文館の「少年文学」叢書の一冊として発刊された村井弦斎(むらい・げんさい、1864-1927)の少年小説『近江聖人』(筑摩書房の「明治文学全集95」に所収)のメインストーリーです。
村井弦斎は、わが国初のグルメ小説とも言われる『食道楽』(当時は「くいどうらく」と読んだ)の作者として知られる小説家・ジャーナリストです。『食道楽』は当時10万部を売り上げたと言われ、徳富蘆花(とくとみ・ろか、1868-1927)の『不如帰(ほととぎす)』に次ぐ大ベストセラーでした。
弦斎が『近江聖人』のような少年小説を書いていたことは、あまり知られていませんが、当時の少年読者の反響は大きく、『近江聖人』は版を重ねました。
藤樹先生孝養像
同行のS氏撮影
【皹(あかぎれ)妙薬の話】
小説『近江聖人』の主人公・藤太郎(とうたろう)は12歳の少年で、父亡き後、故郷の近江を離れて、とおく四国の大洲の叔父のもとに預けられていました。
母親は藤太郎に立派な人になるまでは途中で帰って来てはならない、途中で帰って来ても決して会わない、と申し渡していました。
しかし、叔父から、母親が父亡きあと窮乏して慣れない水仕事を自らせざるを得ず、手足にひどいが皹(あかぎれ)ができて苦しんでいると知らされ、藤太郎はなんとか良き薬を得て母親を助けたいと願います。
そのとき、大洲から6里(約24キロメートル)離れた新谷(しんや)というところに、中田長閑斎という老人がおり、皹(あかぎれ)によく効く妙薬を作っていることを藤太郎は知ります。そして、藤太郎は叔父に無断で新谷へと向かいます。
新谷に着くと、長閑斎たちはキリシタンへの弾圧から逃れるため、まさに退去しようとしていたところで、藤太郎はなんとか薬を分けてもらうことができました。
その薬をもって藤太郎はそのまま近江を目指しますが、旅費の用意など何も無かったにもかかわらず、藤太郎の孝養心に感動した大人たちの親切により、苦労しつつも近江の故郷、小川村にたどりつくことができました。そして早朝、自宅の表で水仕事をしている母親に対面します。
ところが、母親の言葉は思いがけないものでした。
村井弦斎著『近江聖人』
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1919887
「コレ藤太郎、そなたはこの母の言葉を忘れましたか。そなたを叔父様に頼む時、この母が何と言いました。いったん国を出たからは、あっぱれ立派な人にならぬうちは決して途中で帰るなと、あれぼど堅く言い聞かせた事を忘れましたか、孟子の母が機(はた)を断(た)った事くらいは叔父様のお話で聞きましたろう。なぜ叔父様に黙ってそんな事をしてくれた。この母が難儀を忍ぶのも、ただそなたを立派な者にしたいばかり。立派な者にもならないで家(うち)に居て手助けをしてくれたとて決して嬉しくはありません。これまでも独りで来たものなら、独りで帰れぬことはあるまい。母は再び逢いませぬから、その足ですぐ大洲までお帰りなさい。」
あまりの事に藤太郎は黙然(もくねん)として言葉も出(い)でず、気にも心にも力抜けて、雪の上に跪(ひざまづ)きぬ。母はその失望せる様子を見て痛わしさ、哀れさ胸に満ち、かくまでわが身を思うて来たりしものを、百里の道の独り旅。さだめて憂き事も辛き事も多かりしならん。せめて一日なりとも家に入れて旅の疲れを休めさせんかと恩愛の情に心も乱れんとするを、たちまちにしてまた思い直し、なまなかに弱き心をみせなば、修行の邪魔、獅子は子を千仞(せんじん)の谷に落とすと聞くものを、「藤太郎、そなたは母の言うことが分かりませぬか」と強くは叱れど、声は沾(うる)みぬ。
藤太郎は落つる涙をぬぐいつつ頭(こうべ)を垂れしまま、かすかなる声にて「ハイ分かりました」母「それならば今から帰りますか」藤太郎は悲しき声にて「ハイ帰ります」と素直に言う。
(村井弦斎の『近江聖人』より現代表記に変更して引用。)
この話は村井弦齋の創作であり、実話ではないとされています。そもそも藤樹は祖父の家督を継ぐために大洲にいたのであり、勉学のために行ったわけではありません。
ただ、四国の大洲には、藤樹が12歳のときに単身で近江に帰ったとの口碑(こうひ=言い伝え)があり、藤樹が皹(あかぎれ)によく効く薬を手に入れたとの口碑もあるとのことです。「皹(あかぎれ)妙薬の話」のようなことが実際にあった可能性はあるわけです。(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊138ページ)
2024年12月7日公開。