赤埴重賢
芳野 金陵
赤埴重賢、通稱は源藏、鹽山氏なり。世龍野侯に仕へ、出でて赤穗の赤埴某の義子と爲る。馬廻に補せられ、祿二百石を食む。人と爲り勇毅忠直にして、酒を嗜む。
元祿中、赤穗侯吉良義央を幕府に傷つけ、大不敬たるを以て、即日死を賜ひ封除かる。侯の弟長廣に命じて屏居せしめ、尋で城を収む。闔藩恇擾し、鳥竄獸走す。其の血を刺して誓ひ、終始一節、義を執りて變ぜざりし者四十七人。重賢は其の一也。各自ら姓名を變へ、四散韜晦して、以て官の長廣及び義央を處措するを待つ。重賢は則ち高畑源野右衞門と改め、縱飲賭博し、蕩然として檢束無し。蓬髪敝衣、數兄に就いて乞貸す。比鄰指笑すれども、毫も恥づる色無き也。
後久しく來らず。一日酒一壜を提げて來り問ふ。糟氣蓬勃たり。時に雪雨り、身に赤紙の油衣を穿てり。嫂氏に謂ひて曰く、「久しく伯兄を拜晤せず。今將に遠行有らんとす。因りて對斟して別を爲さんと欲す。」と。嫂曰く、「歳將に改まらんとし、公事襲るが如し。今朝命を奉じて各方に使す。還ること必ず晩からん。」と。重賢曰く、「程に上るに期有り、再び過ることを得ず。暫く其の歸るを竢たん。」と。時時漏刻を問ふ。已にして曰く、「晩きこと甚し。請ふ一壜を分ち、半は以て之を伯兄に奉じ、半は以て温めて之を重賢に賜へ。聊か以て獻酬に擬せん。」と。乃ち喫すること徐徐にして、耳を屐聲に傾くること數なり。曰く、「重賢往かん、謁することを得ざる也。嫂氏を煩はさん。爲に善く意を致せ。」と。顧望踟蹰して去りぬ。兄歸り之を聞きて曰く、「噫、彼にして猶且つ然る乎。」と。嘆吁すること之を久しうせり。
重賢已に去り、堀部金丸の家に抵り、同盟と訣飲す。改めて救火の裝ひを爲し、約して曰く、「不幸にして事成らずんば、皆自ら屠りて死せん。」と。良雄之が節度を執り、義央の邸に抵りぬ。前後の門を斫ちて齊しく入り、踴躍力戰す。間光興義央を槍きて之を殪せり。衆欣舞し、帛もて其の首を裹み、之を槍竿に懸く。重賢は矢田助武と留りて、水を竈爐に灌ぎ、火を戒めて去る。共に泉岳寺に赴いて、首を侯の墓前に獻じ、拜跪して状を報じ、罪を監察に請ふ。官分ちて之を四藩に拘ず。明年二月四日、自刃を賜へり。重賢は年三十五なりき。
其の兄嘆いて曰く、「彼此の大事を成す。沈湎して自ら晦ます所以也。予察せずして、屢之を辱む。彼必ず我を以て痴呆と爲さん。面せずして死別せるは、豈に徒に吾が弟の遺憾のみならんや。壜は是れ吾が弟の遺念也。」と。抱きて以て泣けり。龍野侯之を聞き、取りて之を視、感激の餘り、椅桐もて匣を製し、親しく「忠義德利」の四字を書して之に與ふ。邦人壜を稱して「德利」と曰ふ。所謂「貧乏德利」なる者是れ也。
又傳ふ、「重賢事に從ふの前、雪に乘じて妹の夫某を問ひ、對酌して懽を盡くす。小刀を其の子に與へ、陰に以て遺念と爲せり」と。今其の所在を知らざる也。
嗟、遺念と爲せし者は埋沒し、而して倒棄せし所の者は則ち存す。物にも亦幸不幸有る歟。當時傳聞し、來りて其の壜を觀る者、撫摩して或は泣下るに至る。今家に寳藏す。今の主人は勘之助と曰ふと云ふ。
野史氏曰く、天下の遺屨は、以て澤を埋む可く、天下の棄壜は、以て山を成す可し。而れども天祥の屨、重賢の壜は、後世韜櫝珍襲し、人をして感激して涙を揮はしむる者は何ぞ也。其の精忠鴻義の祗に異なること有るを以てに非ず哉。今也郡縣の制立ち、四海一君にして、匹夫匹婦も、皆其の臣民なり。則ち斯の道也、益以て講明せざる可らざる也。赤穗遺臣の事、誠に以て薄俗を敦くし、民風を振ふに足る。一磁壜の微と雖も、予は其の湮沒を惜む。因りて縷記して之を表す。
2002年4月28日公開。