現在の兵庫県竜野市。脇坂氏の城下町。姫路市の北側にある。
現在の兵庫県赤穂市。浅野氏の城下町であったが、城主浅野長矩(あさの・ながのり)が江戸城内で吉良義央(きら・よしなか)を斬りつけた事件で、御家取潰しとなり、城主は森氏に交代した。
養子のこと。当時の武家では、原則として長男が家を継ぐので、次男以下は養子の口を探した。
武家の役職。主君の馬の護衛をするというのが、もとの役目。江戸時代には、上士の身分であった。
一石は百升(十斗)。武士の給料は、米の量で決められていた。なお、「こく」の意味のときは、中国では字音shíではなく慣用音でdànと読む。ちなみに中国の石(dàn)は、唐代は約59.4リットル、清代は約103.6リットルであるのに対し、わが国の石(こく)は、約180.3リットルである。
性質、人柄。
いさましく、意志が強いこと。
忠義で正直であること。
元禄時代は、江戸の第五代将軍徳川綱吉の治世。浅野長矩が吉良義央を殿中で傷つけたのは元禄14年3月14日であり、赤穂浪士討入は元禄15年12月14日である。
浅野長矩(あさの・ながのり)のこと。播州赤穂の城主で、内匠頭(たくみのかみ)であった。元禄14年3月の勅使東下の際に接待役を命じられたが、礼式指南役の吉良義央(きら・よしなか)に賄賂を贈らなかったために辱められ、江戸城中の松の廊下で吉良を斬りつけた。この事件によって即日切腹させられ、御家取潰しになった。
上野介(こうずけのすけ)と称していた。吉良家はいわゆる高家(こうけ=幕府で礼式をつかさどる家柄)で、義央は礼式に通じ、幕府内で重きをなしていたが、傲慢な性格であったといわれている。
ここでは江戸城を指す。
諸侯の領土をいう。
浅野長広は、長矩の弟。幕府の旗本であった。江戸城での刃傷事件のあと、閉門を仰せ付けられ、ついで広島藩の浅野本家に預けられた。
家にひきこもることが原義だが、ここでは幕府から閉門を仰せ付けられたこと。閉門とは、自宅の門を閉じて外出を許さない、一種の監禁刑であった。
赤穂城を明け渡させたこと。
全藩というのとおなじ。藩全体。
恐れて乱れること。
鳥や獣がばらばらに逃げていくように、ばらばらになっていなくなること。
血判をしたこと。
あちこちに散らばること。
つつみかくすこと。ここでは、討入の志をつつみかくしたこと。
処分すること。吉良義央は罪無しとされ、長広は広島藩に預けられることになった。この処分に対する失望が討入の動機になったともいわれる。
「縱」(ショウ zòng)は「ほしいまま」。酒ばかり飲んでいた。
蕩然(dàng rán)とは、跡形もなく、なくなってしまうこと。「蕩然無存」のように使う。
とりしまり、制約のこと。「蕩然無檢束」は、まったく制約するものがなかった、ということ。要するに放縦だった。
ボサボサ頭に、やぶれたボロ服。だらしのない格好。「敝衣」は「弊衣」とも。
龍野侯の家臣で、鹽山氏。
借金をすること。ただし、ここでは無心のこと。
近隣というのと同じで、近所の人たちのこと。
ゆびさしてあざわらう、つまり「後ろ指をさす」という意味の造語。
ある日。
酒の香りがあたりにただようこと。「糟氣」は、酒の香りというつもりの造語(糟は酒かす)。蓬勃は、香りが広がるようす。
赤い油紙で作った雨合羽。「油衣」は、もともと油布でつくる雨衣をいう。当時、油布のかわりに油紙でつくったものもあった。
身に着けること。
あによめ。「嫂子」とも。
長兄のこと。
お会いする。「晤」は会うこと。「拝候」というのと同じ意味。
「死にに行く」ことの婉曲表現。(ここでは、江戸の吉良邸への討入に行くこと。)
向かい合って酒を酌み交わすこと。「対酌」とも。
公務のこと。古くは「くじ」と読んだ。
幾重にも積み重なること。
旅立つこと。
ここでは時刻のこと。(原義は水時計のこと。)江戸時代には、一般家庭に時計などはなく、時の鐘で時刻を知った。
杯のやりとりをすること。
なぞらえること。ここでは、徳利の半分の酒を自分が飲み、半分を兄のために残しておくことで、献酬になぞらえた。
飲むこと。「喫」(chī)は、ふつうは食べることだが、飲む意味でも使う。
はきものの音。兄が帰ってこないかと、外の足音に耳をすました。
爲我(我がために)。
自分の意向を兄に伝えること。つまり、「徳利半分の酒を、別れの杯のかわりにしてほしい」と兄に伝えること。
「顧望」も「踟蹰」もためらう様子。兄に一目会わずには去りがたい思いがあった。
「日ごろ放蕩な弟と思っていたのに、別れを惜しむ様子はただならない。何事かあるのだろうか」と気になった。
長大息する。ためいきをつく。
通称は弥兵衛(やへえ)。赤穂藩の江戸留守居役。高田馬場の決闘で有名な堀部安兵衛は、金丸の養子。金丸は、77歳で、義士中の最長老であった。討入前夜の別れの宴は、彼の家で行われた。
もともと諸侯の同盟のことをいう語。ここでは討入の同志たちのこと。
別れの杯を酌み交わすこと。
赤穂義士は、火消装束(ひけし・しょうぞく)で討入に行った。(諸説あるが、大石ら数人が火消装束だったのは間違いないとされる。)
殺すこと。とくに殺戮をいう語。「ほふる」と古語で読む。
大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)の諱(いみな)。大石は、赤穂義士の首領。
指揮をとること。
襲撃すること。「斫(シャク zhuó)」は、もともと斧で「切る」ことだが、襲撃するという意味にも使われる。
喜び勇んで、従事する様子。(もとは飛び跳ねる意。)
赤穂義士の一人で、討入のとき炭小屋に隠れていた吉良義央を発見した。
槍で突いた。
こおどりして喜ぶこと。「欣喜雀躍」。
やりの柄のこと。
赤埴重賢とともに芝浜松町に潜伏していた同志。討入中、敵に切りつけたとき、刀が折れてしまったというエピソードがある。
「かまど」と「いろり」。火元になりそうなところに水を注いで、火事にならないようにした。
東京品川にある。主君浅野長矩が葬られていたので、ここへ報告に行った。のち、赤穂義士四十七人もここに葬られた。
主君浅野長矩。
ぬかづくこと。両膝を地に着けて伏し拝むこと。
委細に事情を報告すること。
監督・視察を役目とする役人のこと。
酒色におぼれること。
つつみかくすこと。「韜晦」に同じ。
「ばかもの」という意味。現代語の「痴呆」が、いわゆるボケのことをいうのとは異なる。
対面すること。
残念の意。
死んだ人の形見。
きりの木。
おんみずから。自分でなさる意。
量り売りで酒を買うときに使う一升徳利。「貧乏徳利」という名称は、金持ちは樽で酒を買うのに対して、量り売りで買うのは貧乏人であることに由来している。
向かい合って酒を酌み交わすこと。
よろこび。
ありか。形見として残された小刀の所在(ありか)が分からなくなってしまった。
倒したり、棄てたりする、という意味。
そのころ。「當時」は、「ただいま」「すぐに」の場合と、「そのころ」の場合がある。ここでは後者。
手でさすること。
涙を流す。「泣(キフ qì)」には、「小声で泣く」という意味のほかに「なみだ」という意味がある。「なんだ」と読みならわしている。
宝物として、大切にしまっておくこと。
赤埴重賢の兄の子孫である、鹽山家の現在のあるじ。
史伝の末尾に論評を加える「論賛」の最初には、「野史氏曰く」、「外史氏曰く」、「賛に曰く」などと書く。
棄てられたくつ。「遺」には「棄てる」という意味がある。「屨」は「くつ」。
水流のあつまるところ。和語の「さわ」は、山あいの谷川のことなので、ここでは「タク」と音読しておく。
棄てられた壜。
「天祥」とは文天祥(ぶん・てんしょう、1236-1282)のこと。文天祥は、宋が元によって滅ぼされれようとしているときに、最後まで抵抗した忠臣。詩人でもあり、「正気歌」が有名。元帝フビライに処刑された。
「天祥の屨」というのは、文天祥のくつを手に入れた人は、何の変哲もない、使い古したくつであるにもかかわらず、「忠臣のくつ」として宝のように大切にした、ということ。『靖獻遺言』(浅見絅斎の著書)の文天祥伝に「其の一履を得る者有れば、亦之を寳藏せりと云ふ」とある。
箱に入れて、大事にしまっておくこと。「韞櫝(ウントク yùn dú)」とも。
大切に秘蔵すること。
涙を流すこと。
忠義のまことをつくすこと。「精忠」という語は、岳飛(宋の忠臣)を連想させる。岳飛は金との戦いに連戦連勝し、高宗から宸筆で「精忠岳飛」と書かれた「精忠旗」を賜った。
大きな忠義。
「祗(ギ qí)」には、「大きい」という意味がある。
明治の御代となった今現在。
それまでの幕藩体制は、一種の地方分権政体であったが、明治政府は、中央集権体制を作り、天皇中心の国家ができた。法制度としては、明治4年の廃藩置県につづき、明治11年に郡区町村編成法が制定された。
四海とは、天下のこと。天下において君主は、天皇陛下ただお一人であること。
平民のこと。
(天皇陛下の)官吏と人民。
「精忠鴻義」(前出)の道。
説き明かすこと。
軽薄な風俗。
埋もれて分からなくなってしまうこと。
事細かに記すこと。
顕彰すること。
2002年4月28日公開。