日本漢文の世界


赤埴重賢解説

 赤穂浪士については、『忠臣蔵』の国民的人気により、さまざまなエピソードが語られています。赤埴重賢のこの話も、講談の主要演目「赤垣源蔵・徳利の別れ」でおなじみのところです。くりかえし映画やテレビに登場した話なので、ご存知の方も多いと思います。(この話は、なぜか歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』にはありません。また、講談などでは「赤埴」が「赤垣」になっています。)
 金陵先生のこの文章の読みどころは、よく知られたエピソードを、漢文で簡潔に表現した点にあります。叙事の妙技をじっくりと味わってください。
さて、赤埴重賢は実は下戸で寡黙な人であり、「徳利の別れ」は巷説にすぎない、とする説もあります。私もきっとそうだろうと思っていたのですが、金陵先生のこの文章を読むと、なんと「徳利の別れ」の貧乏徳利が、桐の箱に入れて保存されている、というではありませんか。しかも、赤埴重賢の兄の子孫、塩山勘之助さんという人が大事にもっている、と明記されているのです。これは、ほんとうの話でしょうか。すると、もしかしたらその徳利は現存しているかもしれません。(この徳利のことについて、何かご存知の方は、ぜひ教えてください。)
 
※仙台の野崎さんが「貧乏徳利」について、次のようなメールをくださいました。(2002年5月1日)

  

 江戸時代の酒器は元禄時代までは塗り物の樽、金属製の銚子それに漆器の盃でした。寛文(17世紀末)頃から陶器の銚子と盃が、18世紀後半から徳利が一般化したようで、東京大学構内の加賀前田家支藩大聖寺藩邸の発掘でも陶磁器の徳利は18世紀中期の地層から上にしか出ないそうです。
 ですから1702年時点で貧乏浪人に身をやつしていた赤埴源蔵が貧乏徳利というのは一寸・・・という気がします。
 まあ、英雄伝説は詮索するのが野暮かも知れません。

2002年4月28日公開。2002年6月2日一部追加。