所字短語が主謂短語(ネクサス)となる場合「所」字の前に置かれる動作の主体の表示は、「之」字を用いて「之字短語」の形になることも多いので、例を挙げておきます。
【例句1】
時非聖人之所能為也。(蘇軾『論封建』)
(訓読)時は聖人の能く為る所に非ざる也。
(現代語訳)「時」は、聖人が作ることのできるものではない。
所能為
作り得る対象
↓
主語を追加
聖人之→所能為
聖人の作り得る対象
この句では、所字短語が謂語になっています。
主語(主部) | 謂語(述部)=定中短語 | |||
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[定語] | 謂詞=主謂短語(所字短語&之字単語) | |||
主詞 | 之字 | 謂詞(所字短語) | ||
時 | [非] | 聖人 | 之 | 所能為。 |
否定には決断副詞「非」が使われていることに注目してください。通常、所字短語は「無」で否定されますが、ネクサスの所字短語は「非」で否定されるのです。「非」は体言を否定する決断副詞であり、用言を否定する否定副詞「不」はここでは使えません。「非」を使っているのは、ネクサスの「所字短語」がネクサス名詞を構成するためと考えられます。(ネクサス名詞については3節(5)をご覧ください。)
これに対し、ネクサスではない通常の所字短語は「非」ではなく「無」で否定さます。おさらいとして一例をあげておきます。
【例句2】
雖有賁・育、無所復施。(蘇軾『留公論』)
(訓読)賁・育有りと雖も、復た施す所無からん。
(現代語訳)孟賁(もう・ふん)・夏育(か・いく)のような勇者でも、手の施しようがないだろう。
所→復施。
手を施す対象。
「復」は「また」と訓読しますが、ここでは語気の上で付加されただけのものです。つまり「施」一字ではリズムが悪いので二字にするために「復」が追加されただけのことで、「復」には「また」「ふたたび」という強い意味はありません。ここでは「復施」の二字で「手を施す」意味だと考えてください。
無 所復施。
手を施す対象 が無い。
↓
主語(主部)=述賓短語 | 謂語(述部)=述賓短語 | |||||
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<連詞> | 謂詞 | 賓語 | 謂詞 | 賓語=所字短語 | ||
<雖> | 有 | 賁・育、 | 無 | 所復施。 |
2007年11月11日公開。