日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(12)漢文訓読の歴史

 さてここで、漢文訓読の歴史について簡単に触れておきます。

 漢文訓読はいつから行われているのでしょうか?

 興味ある問題ですが、漢文訓読がいつごろから始まったかは明らかではありません。応神天皇の15年(西暦284年)に、百済(くだら=当時朝鮮半島にあった国)から来日した王仁(わに)によって、『論語』と『千字文』がもたらされた時、すでに訓読の方法があったという説さえあります。

 それはありえないとしても、推古朝にはすでに漢文訓読が行われていた形跡があります。奈良時代末期から平安時代になると、仮名や「ヲコト点」、返り点などを漢文に直接書き込んだ「訓点資料」が現れます。これらの「訓点資料」により、当時の訓読がどんなものであったかを知ることができます。

ヲコト点の図 日本漢文の世界ヲコト点の図

 上の図は、『群書類従』の巻四百九十五(第二十八輯)にある『諸家点図(しょけてんず)』の一部です。これは、「ヲコト点」の実例を集めた資料として有名なものですが、『群書改題』の築島裕博士の解説によれば、錯脱が多く、あまり役に立たないとのことです(『群書改題』第八巻、138ページ)。信頼できる研究書を以下に紹介しますので、「ヲコト点」について調べてみたい方は、それらを参照してください。

 「ヲコト点」というのは、朱点を漢字の四隅や中央に打って、訓読法を指示する記号です。平安時代の訓読法は各博士家の秘伝だったようで、「ヲコト点」も各家で違っていました。最初期の「ヲコト点」は、朱点ではなく、白粉で書かれていました。これについて遠藤嘉基(えんどう・よしもと)博士は、「書は太陽に向かって読むものであるが、そういう態勢で白粉の加点を見るとなかなか詳細を知ることがむずかしい。極端にいえば、白粉は太陽を背にしてはっきりと浮いてくる。」(『訓点資料と訓点語の研究 改訂版』、臨川書店、14ページ)と述べられています。このような秘密の「ヲコト点」 が次第に「朱点」として固定化されるようになります。

 それでは、具体的に昔の訓読はどのようなものだったのか、見てみることにします。

 中田祝夫(なかだ・のりお)博士の『古点本の国語学的研究・総論篇』(勉誠社)により、昔の読み方を再現してみます。

(原文)

 子曰、学而時習之、不亦説乎。(『論語』)

(a)平安朝博士家点

 ()(のとうば)く、(まな)んで(而)(とき)(なろ)う(之)、(また)(よろこ)ばしから()()。(同書158ページ)

 ( )の字は訓読では読まない「置き字」です。平安朝の博士家の点は、「置き字」が多いのが特徴です。日本語として必要ない字は、すべて「置き字」にしていたからです。これに対して、江戸時代初期に朱子学の立場から批判が出ました。『論語』などは「聖人の言葉だから、全ての字を読むべきだ」というのです。そして、江戸時代の新しい訓読ではできるだけ「置き字」が減らされるようになりました。

 もう一つの特徴は、「曰」を「のとうばく」と読んでいることです。こうした博士家点特有の「読み癖(読み慣わし)」は、いろいろあります。中田博士の前掲書(162ページ)から、「読み癖」の例を紹介します。

(原文)察其所安(為政篇)

(博士家点)()(やす)んずる(ところ)()てむするときんば

(現代)()(やす)んずる(ところ)(さつ)すれば


(原文)何晏(子路篇)

(博士家点)(なん)(おそ)かりつる

(現代)(なん)(おそ)きや


(原文)至於魯(雍也篇)

(博士家点)()に(於)(いた)んなん

(現代)()に(於)(いた)らん


(原文)既往不咎。(八佾篇)

(博士家点)(すで)()きんじをば(とが)() 

(現代)既往(きおう)(とが)()


(b)江戸時代初期・文之点

 ()(のたまわ)く、(まな)んで(しこう)して(とき)(これ)(なろ)う、(また)(よろこ)ばしから()らん()。(同書164ページ)

 この訓読では、「而」「之」など、平安朝の博士家点では「置き字」とされていた字も読まれています。そして、「曰」は博士家点では「のとうばく」とか「のとうまく」と読み慣わしていましたが、これは本来「のたまわく」であるとして、修正されています。また、博士家点の 「よろこばしからずや」という言い方は卑陋であるとして 、「よろこばしからざらんや」という読みを採用しています。

 この文之点(ぶんし・てん)というのは、岐陽、桂庵といった江戸時代初期の新注(朱子学)派の僧侶を先駆者とする訓読法で、文之という僧侶が加点したものです。これは、訓読法に大きな歴史的転換をもたらしました。博士家特有の「読み癖」を排斥して、できるだけ簡明な読み方をし、「置き字」もできるだけ少なくするという方針が徹底されているのです。これは現代の訓読法の源流となったものとされています。(同書163ページ)


(c)江戸時代初期・道春点

 ()(のたまわ)く、(まな)んで(而)(とき)(これ)(なろ)う、(また)(よろこ)ばしから()()。(同書166ページ)

 道春点(どうしゅん・てん)というのは、林羅山(はやし・らざん)の考案した訓点で、文之点と博士家点をある程度折衷していました。初期の道春点は、博士家点の影響の方が強いものでしたが、江戸中期以後になると、同じく道春点の名を冠していながら、現代の訓読と同じような簡便な訓読が登場します。道春点に、このような歴史的変遷があることを指摘したのは、中田博士が最初です。(同書171ページ)

 中田博士の本から、初期の道春点に残る博士家点風の読み方をいくつか拾ってみます。

(原文)好作乱者、未之有也。(学而篇)

(道春点)(らん)(おこ)さんことを(この)(もの)は、(いま)(これ)()()(也)

(現代)(らん)()すを(この)(もの)は、(いま)(これ)()()(なり)

※否定副詞「未」は、訓読では「いまだ・・・ず」と二度読みます。そのため、「再読文字」と呼ばれることがあります。


(原文)吾不復夢見周公。

(道春点)(われ)(また)(ゆめ)にだも周公(しゆうこう)()()

(現代)(われ)(また)(ゆめ)周公(しゆうこう)()()

 

 このような道春点にのこる古い特徴を、極力排斥したのは荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の弟子・太宰春台(だざい・しゅんだい)でした。彼の著書『倭読要領(わとく・ようりょう)』は、訓読の簡略化・合理化を促したものとして特筆に価します。これは勉誠社文庫66として復刻されていますから、興味のある方は一読してください。この本については、あとでまた触れます。→(14)

 太宰春台は、古い読み方を例えば次のように修正しています。(中田前掲書170ページ、勉誠社文庫版『倭読要領』207ページ)

 せましかば    → せば

 せざらまし    → せじ

 いうべからくのみ → いうべきのみ

 ならくのみ    → のみ

 しけらし     → す(せり)

 ならむ      → なり


(d)江戸時代後期・一斎点

 一斎点では、「子曰、学而時習之。」の読み方は、道春点と同じですが、「人不知而不愠」を「人知らずして愠(うん)せず」などと読みます。これは簡略化に努めるあまり、国語としては意味をなさないような読み方をするようになったものだと評されています。これは、道春点では「人知らずして愠(いきどお)らず」と読むところです。(同書171ページ)

 一斎点というのは、江戸後期の大学者・佐藤一斎(さとう・いっさい)が考案したもので、極端に音読を交えた読みかたです。一文字の動詞は和訓で読むのが一般的な訓読法ですが、それさえも「愠(うん)せず」などと音読するのです。これは、訓読から原漢文を思い出すのに便利だからという理由でしたが、訓読文は国語としては破綻していました。そのため、明治以後には踏襲されず、一時の流行に終わりました。(中田博士は一斎点については、実例を示されていないので、実態はよくわかりません。もし一斎点の四書などが手に入ったら、例文を追加したいと思います。)


(e)明治以後

 「子曰」を「子の曰(のたまわ)く」と読むかわりに、「子曰(いわ)く」と読むようになりました。これは、「のたまわく」などの敬語的な読み方は、皇室の御事を述べている場合に限るということになったためです。文部省は、明治45年に『漢文に関する文部省調査報告』を出しており、訓読や訓点について標準を定めました。これが今日でも標準的なものとして準拠されています。

 古い訓読については、上記の遠藤・中田両博士の著書のほかに、築島裕(つきしま・ひろし)博士の『平安時代の漢文訓読語につきての研究』(東京大学出版会)、小林芳規(こばやし・よしのり)博士の『平安鎌倉時代に於ける漢籍訓読の国語史的研究』(東京大学出版会)を代表的研究として挙げることができます。これらはいずれも分厚い専門書ですが、興味をもたれた方は、読んでみてください。

 なお、今日における標準的な訓読法の参考書としては、小川環樹・西田太一郎著『漢文入門』(岩波全書)、西田太一郎著『漢文の語法』(角川小辞典23)を推薦します。また、多久弘一・瀬戸口武夫著『新版・漢文解釈辞典』(国書刊行会)は多くの例を集めており、白文を訓読する際に参考になります。



2005年3月27日公開。

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