さて、「漢文訓読体」の表現力は、いかほどのものでしょうか? 現代人から見ると、文章がいかめしく、どれも同じように見えてしまいます。細かなニュアンスを表現できないのではないかと疑う方もいらっしゃると思います。
しかし、結論から申しますと、「漢文訓読体」の文章から細かなニュアンスが読み取れないとすれば、それは読み手側に原因があります。つまり、読みなれていないから、読み取れないというだけのことです。「漢文訓読体」の文章を、たくさん読んで慣れてくれば、細かなニュアンスも、次第に分かるようになってきます。
「漢文訓読体」の文章をたくさん読むことは、知らず知らずのうちに、漢文を読む訓練にもなります。私は中江兆民の文章が好きで、全集を読みこんでいるうちに、いつのまにか漢文が読めるようになっていました。これは不思議なことのようですが、「漢文訓読体」の文章が、漢文をもとにしたものであり、「復文」すれば漢文になることからすれば、当然なのです。
中江兆民の文章は、内容が面白く、リズムが良いので、読む訓練の素材として最適です。岩波文庫にも『三酔人経綸問答』(これは総ルビかつ現代語訳つきという親切な本)、『一年有半』などが入っていますから、ぜひ読んでみてください。以下に兆民先生の『三酔人経綸問答』から一節を引用してみましょう。
『三酔人経綸問答』より(岩波文庫版では163ページ、全集では第8巻225ページ)
豪傑の客曰く、然ば則ち、若し兇暴の国ありて、我れの兵備を撤するに乗じ、兵を遣わし来りて襲う時は、之を如何?
洋学紳士曰く、僕は断じて此の如き兇暴国有ること無きを知る。若し万分の一、此の如き兇暴国有るに於ては、吾儕各自ら計を為さんのみ。但僕の願う所は、我衆一兵を持せず、一弾を帯びず、従容として曰はんのみ。吾儕未だ礼を公等に失うこと有らず、幸に責らるるの理有ること無し。吾儕相共に治を施し政を為して、争訌すること有ること無し。公等の来りて吾儕の国事を擾すことを願わず。公等速に去りて国に帰れ、と。彼れ猶ほ聴かずして、銃礮を装して我に擬する時は、我衆大声して曰わんのみ、汝何ぞ無礼無義なるや、と。因て弾を受けて死せんのみ。別に繆巧の策有るに非ざるなり。
(現代語訳)
豪傑の客が尋ねた。
「それならば、もし兇暴な国があって、わが国の兵備撤廃に乗じて侵略してきたらどうするつもりなんだ?」
洋学紳士は答えて言う。
「僕は、そんな兇暴な国は、断じてないと思う。もし万が一、そんな国があったら、われわれは各個人で、それぞれ対処しなければならない。僕は、みんなが武器を持たず、実弾も込めず、しずかにこう言うことを願うね。『われわれは、君たちに対して、礼儀を欠いたことはない。非難される理由は、何もないはずだ。われわれは協力して政治を行なっており、国内にはもめごとは一切ない。外からやって来て、わが国を乱すようなことは、やめてもらいたい。速やかに退去して、自分の国にお帰り願いたい。』とね。それでもなお、彼らが説得に応じず、銃や大砲に弾を込めて、こちらに向けてくるのなら、われわれは大声でこういうだけだ。『おまえたちは、礼儀も道理もわきまえないのか!』と。そして、弾に当たって死ぬだけさ。ほかに何かすごい策略があるわけではないね。」
『三酔人経綸問答』は、酔っ払いの議論という設定なので、言いたい放題に過激な意見が述べられており、たいへん面白い本です。これは軍備撤廃論を述べた部分で、兆民先生はこういう議論を大まじめにやらかすと滑稽きわまりないことを、十分計算の上で書いていると思われます。しかし、戦後になって多くの人人が、この文章の無抵抗主義的非戦論に深い感銘を受けたのも事実です。中江兆民という思想家の幅広さを示す一文でもあります。
『三酔人経綸問答』を読んでいると、漢文が「漢文訓読法」をとおして、完全にわが国の文化に溶け込んでいたことが、よく分かります。明治という時代の輝きは、「漢文訓読体」(=「明治普通文」)の文章と共にありました。漢文訓読法を廃止してしまうと、明治の膨大な文献を読むことができなくなるおそれがあります。→第2章
さて、 『三酔人経綸問答』の文章も一応は「復文」が可能です。ただし、『教育勅語』とは違い、くだけた調子で自由に書かれているため、漢文に「復文」すると多少口調の悪いところがあるのは事実です。
(復文)
豪傑客曰、然則、若有兇暴之国、乗我撤兵備、遣兵来襲時、如之何?
洋学紳士曰、僕知断無有如此兇暴国。若万分之一、於有如此兇暴国、吾儕各自為計耳。但僕所願、我衆不持一兵、不帯一弾、従容曰、吾儕未有失礼於公等、幸而無有被責之理。吾儕相共施治為政、無有争訌。不願公等来而擾吾儕国事。公等速去、而帰国矣。彼猶不聴、装銃礮擬我時、我衆大声曰、汝何無礼無義也。因而受弾死焉耳。別非有繆巧之策也。
「漢文訓読法」の完成度の高さが、十分ご理解いただけたことと思います。「直訳体」にすぎなかった「漢文訓読体」が、一つの文体として成立するばかりではなく、明治時代という一つの時代を担う文体にまでなりました。訓読法の改良を重ねてきた、先人の努力の賜物であります。
2005年3月27日公開。