「漢文訓読体」という文体がいかなるものであるのか、詳しく見てみることにいたします。この文体は時に「漢文崩し」※と呼ばれることもあります。これは明治時代には標準的な文体となり、「普通文」という名称で呼ばれたことは、(9)で述べました。
※「漢文崩し」は、通常は漢文を書き下した文体のことです。しかし、小島憲之博士は、書き下し文をさらに和らげて、漢語を和文化したものの意味に解されています(『漢語逍遥』岩波書店、246ページ)。碩学の見解ではありますが、少し考えすぎのように思います。
「漢文訓読体」は、明治政府の公文書に用いられたことから、一般に広まりました。「明治普通文」の生みの親は明治の法律や詔勅です。民法(親族法以外)や商法はいまでも「漢文訓読体」の古い法律がそのまま使用されています(現在口語化の作業が進行中だそうです)。刑法も平成7年に口語化されるまでは、「漢文訓読体」であったことは、ご存知のとおりです。
ここでは、明治の詔勅の例として、いちばん有名な『教育勅語』(明治23年)を引用しておきます。これをご存知ない方はおられないと思いますから、あえて訳文は載せません。(ただし、引用は現代表記に直しました。)
教育勅語
朕惟うに、我が皇祖皇宗、国を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民、克く忠に克く孝に、億兆心を一にして、世世厥の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして、教育の淵源、亦実に此に存す。爾臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し、進で公益を広め、世務を開き、常に国憲を重じ、国法に遵い、一旦緩急あれば、義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし。是の如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。
斯の道は、実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民の倶に遵守すべき所。之を古今に通じて謬らず、之を中外に施して悖らず。朕爾臣民と倶に拳拳服膺して、咸其徳を一にせんことを庶幾う。
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
この文章は、そのまま漢文に直訳することができます。直訳して漢文の形に戻すことを「復文(ふくぶん)」と言います。
『教育勅語』の復文による漢訳は、数種あります。字句は当然ながら、いずれも殆ど同じです。次に掲げるものは、重野成斎(しげの・せいさい)博士の『大日本維新史』に載っている漢訳です。
教育勅語
朕惟、我皇祖皇宗、肇国宏遠、樹徳深厚。我臣民、克忠克孝、億兆一心、世済厥美、此我国体之精華、而教育淵源、亦実存乎此。爾臣民、孝乎父母、友乎兄弟、夫婦相和、朋友相信、恭倹持己、博愛及衆、修学習業、以啓発智能、成就徳器、進広公益、開世務、常重国憲、遵国法、一旦緩急、義勇奉公、可以扶翼天壌無窮之皇運。如是、不独朕忠良臣民、又足以顕彰爾祖先遺風。
斯道、実我皇祖皇宗之遺訓、而子孫臣民所当倶遵守。通之古今而不謬、施之中外而不悖。庶幾朕与爾臣民、倶拳拳服膺、咸一其徳。
さて、訓読文はもともと漢文の翻訳文でありました。しかし、「明治普通文」では、訓読体の文章のほうが原文で、その漢訳のほうが翻訳であるという逆転がおこってしまいます。つまり、「明治普通文」の文章では、漢文訓読体の文章のほうこそが原文として尊重すべきものであり、漢訳のほうはあくまで翻訳にすぎないのです。これは漢文が原文で、訓読が翻訳にすぎない場合とは尊重すべきものが逆にになっています。→(8)
さて明治時代には、お隣の清国(現在の中国)からわが国へ、たくさんの留学生がやって来ました。彼ら清国留学生たちは、漢文訓読体(明治普通文)の書物を、漢字だけ拾って容易に読むことができました。これを「和文漢読」と称します。「漢文訓読」の逆です。
漢文訓読体(明治普通文)で書かれた日本の書物の中には、漢訳されて清国で普及していたものもあるそうです。「漢訳」といっても、要するに「復文」しただけのものです。一例をあげれば、中江兆民の『理学鉤玄(りがく・こうげん)』(今日の言葉でいえば「哲学概論」のこと)も、漢訳されて清国で出版されていたそうです(島田虔次『中国での兆民受容』、中江兆民全集第1巻月報)。
2005年3月27日公開。