日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(8)漢文訓読法の特徴4 訳語の一定

(d) 訓(訳語)は一定させること。

 英文訓読でも、 ‘will’ を必ず「あろう」と訳するなど、訳語を一定させて、パタン化を図ろうとする傾向がありました。漢文訓読では、訳語の一定化はさらに徹底されています。『論語』の例でも分かるように「曰」は「いわく」、「亦」は「また」と当てるべき和訓は固定されています。

 しかし、固定された和訓は、往往にして非常に古い日本語です。「いわく」などは、奈良時代の語法を留めていると言われます。これは、漢文訓読という方法が、千年以上の歴史をもっているため、古い時代の直訳が和訓として固定化してしまったからです。

 山田孝雄(やまだ・よしお)博士の名著『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』(宝文館出版)は、古い時代の訓読語がどのように固定化したかを解明したものです。この本から、実例を拾ってみましょう。

如  → ごとし

曰  → いわく

庶幾 → こいねがわくは

所謂 → いわゆる

垂  → なんなんとす

微  → なかりせば

而  → しこうして

蓋  → けだし

所以 → ゆえん

 このような古い言い回しが固定している結果として、訓読文(直訳文)は一種の古文になってしまいます。訓読法で直訳できただけでは漢文の意味は分からず、訓読文(直訳文)の古文の理解も必要になるわけです。いわば二重のハードルです。これも漢文が敬遠される原因の一つになっていることは、いうまでもありません。→(19)

 しかし、訓読法での読み方が固定されていて自由度が少ないということは、誰が訓読文を作っても、ほとんど同じになるということなのです。ですから「訓読」は漢文の直訳であると同時に定訳にもなるのです。

 ただ、だからといって訓読文を原文扱いすることはできません。訓読文は、誰が作っても同じようにはなりますが、あくまで翻訳の一種であり、原文ではありません。ところが一般書籍では、訓読文をまるで原文のように扱っているものがあります。たとえば、岩波書店の日本古典文学大系「明治編」では、最初の三冊を割いて明治の漢詩文を紹介していますが、原文を載せず、訓読文だけしか載せていないのは片手落ちです(ただし、漢詩には原文を付載している)。原文なしでは、私たちマニアにとっては無価値です。出版社は、原文収録の労力と紙数を惜しまないでいただきたいものです。

※この文章を公開した2005年3月には、まだ刊行されていなかった岩波書店の日本古典文学大系「明治編」第3巻『漢文小説集』が2005年8月に刊行されました。これには原文の影印版が巻末に掲載されています。まさか岩波編集部が拙文を読んでくださったわけではないと思いますが、「原文を載せてほしい」という声は意外と多かったのだろうと思います。(2006年4月10日追加)



2005年3月27日公開。

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