日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(9)漢文訓読法の特徴 5 漢文訓読体

(e)そのまま日本語の順序に書き下すと直訳体になること。

 漢文を訓読法で書き下した文体は、「漢文訓読体」と呼ばれています。これは、一種の古文であることは(8)でも触れました。ただ、これは直訳体であるにもかかわらず、朗朗と読み上げるのに適した堂堂たる文体になっております。漢文の直訳体にすぎなかったものが、一つの文体として成立することは、漢文訓読法の完成度の高さを示しているといえましょう。

 明治時代には、この「漢文訓読体」が公式な文体となりました。明治時代は面白い時代で、それまで行われていた習慣をどんどん廃止し、新しい伝統を作り上げようとしていました。

 江戸時代の公式文書には「候文(そうろうぶん)」が用いられ、これは御家流(おいえりゅう)の行草(ぎょうそう=行書と草書の合いの子)で書かれていました。「候文」は、基本的には漢字だけで書きますが、ときに「ひらがな」が混じります。これに対し、明治時代の公式文書は、文体が「漢文訓読体」になり、書かれる書体も唐様(からよう)の楷書にカタカナを交えた書き方になり、見た目も大いに変わりました。

 漢字だけを用いるのが原則であった公用文が、漢字カタカナ交じりになったのですから、一見簡単になったように見えますが、実は難しくなったのです。何故かといいますと、候文は漢字ばかりで書かれていても和文の一種だったので、庶民にも容易に理解できるものでした。しかし、漢文訓読体の文章は、漢文の知識がないと容易には読めない文章です。ですから、庶民はこれを読むことができず、「又、ご布告か、坊やとなりへ置いてきな、アア少しも読めねえ」などと歌われたほどで、布達書を箱に入れて回覧したところ、空き箱だけが数十軒をを回り、中身の布達書はある家にストップしたままだったという話さえあるそうです(森岡健二著『日本語と漢字』、明治書院、107ページ、124ページ)。当時、明治政府の布告を読むために、専用の手引書(「節用集」と呼ばれる単語辞典)が何種類も作られました。

 なぜ、明治時代に漢文訓読調の文章が主流となったのでしょうか? これは、明治維新を実現させた尊皇思想が、頼山陽の『日本外史』などの漢文作品を通じて普及したことにも一因がありそうです。また、維新後に官吏となった人人は、武士階級の漢学書生出身者が多かったためでもあります。彼らエリートの言語は標準的なものとみなされ、模倣の対象となりました(森岡、前掲書、106ページ)。そのため、明治時代は漢語が大流行し、女子供までが漢語を使って得意になりました。

 新聞記事、小説など世間一般の文章も、漢文訓読調で書かれるようになり、それらが活版印刷により大量に流布しました。こうして、漢文訓読体は世間一般の普通の文体となり、「普通文」と呼ばれるようになりました。明治維新から明治中期までの文献を多数あつめた、岩波書店の『日本近代思想体系』を開いてみると、ほとんどの文献が「明治普通文」で書かれています。それほどこの文体は普及したのです。

 ただ、「漢文訓読体」の文章を綴るには、漢文の知識が必要です。しかし、明治も中期以降になると、漢文学習の衰退とともに、この文体も衰えざるを得ませんえした。明治25年に森田思軒(もりた・しけん)は『我邦に於る漢学の現在及び将来』という文章を書き、圧倒的な西洋文化に押されて、漢学が僅かの間に凋落したことを慨嘆しています(日本近代思想体系16『文体』、岩波書店、29ページ以下)。

 そして、いわゆる「普通文」も、当初の純粋な漢文脈から和文とチャンポンのような文体に変わってゆき、しまいには「言文一致体」(口語体)に取って代わられるのです。(森岡健二編著『近代語の成立 文体編』、明治書院、第二章を参照。)



2005年3月27日公開。

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