日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第三章 日本漢字音と字音かなづかい




(9)字音の歴史的かなづかい

 日本の漢字音は、当然「かな」で表現されます。しかし、日本語は、世界でももっとも音節が少ない言語のひとつで、多様な音節をもつ中国語の発音をかなで表現することは、もともと不可能です。そのため、日本漢字音は、次第に五十音で表現できる形に変化してしまいました。

 ところで、漢字音のかなづかいについては、昔の漢学先生はあまりやかましく議論しなかったようです。もちろん、あまりにも無慚な間違いが横行することに腹を立てて、啓蒙書で指摘した貝原益軒(かいばら・えきけん)や太宰春台(だざい・しゅんだい)のような人もありますが、むしろ例外に属するようです。(山田俊雄著『日本のことばと古辞書』、三省堂、193ページ以下、又、太宰春台著『倭読要領』、勉誠社文庫66)

 漢字音の歴史的かなづかいを定めたのは、漢学先生ではなく、国学者の本居宣長です。宣長大人(「大人」は「ウシ」と読んでください)は本当に偉い人です。彼の『字音仮字用格』(この書名は「字音かなづかい」と読みます)には、漢字音のうち、混同しやすいものを中心に、詳細な記述がなされています。現在、漢和辞典などに載っている、漢字音の歴史的かなづかいは、宣長大人が定めたかなづかいを、ほとんどそのまま踏襲したものです。ですから、宣長大人の「間違い」までそのまま継承しております。

 宣長大人はどうやって字音のかなづかいを定めたかというと、『韻鏡』(いんきょう)などの中国古代の韻書を詳細に研究し、字音の反切を詳細に調べたわけです。(本居宣長『字音仮字用格』、『本居宣長全集5』、筑摩書房、319ページ以下)漢字音の歴史的かなづかいは、このようにして宣長大人が中国古代の韻書から演繹的に作ったものです。

 ところが近年、古代の文献についての研究が進むなかで、古代の漢字音についても、いろいろな資料が発見されました。そうした中で、宣長大人の定めた「字音かなづかい」には、次のような問題点があると指摘されるようになりました。

(a)宣長大人は、「累」を「ルヰ」、「水」を「スヰ」のように記述しているが、古例では、「ルイ」、「スイ」であること。これらは、韻書から演繹される音としても「ルイ」、「スイ」と記述すべきところですが、宣長大人が間違えてしまったのです(沼本克明著『日本漢字音の歴史』、東京堂出版、178ページ。又、築島裕著『歴史的仮名遣い』、中公新書、125ページ 、158ページ)。これは、宣長式の字音かなづかいの、いちばんの欠点とされています。

(b)宣長大人は、「クワ」、「グワ」の音は認めたのに、「クヰ」、「クヱ」などの音は認めず、「キ」「ケ」に帰納してしまったこと。しかし、古例ではこれらは区別されています(沼本前掲書、293ページ)。反切のところでも触れましたが、「元」や「原」は、「ゲン」ではなく、「グヱン」とすべきでした。

(c)「山」は「サン(shan)」、「深」は「シム(shim)」のように、韻尾が「n」、「m」となる字音について、古例では明らかに区別しているのに、宣長大人はこれらを混同しています(沼本前掲書、241ページ。又、築島前掲書、124ページ)。これは、「ン」、「ム」の区別が後世には消滅していたからです。宣長大人は、これらはすべて「ム」で表記すべきだと考えましたが、現在行われている歴史的かなづかいでは、すべて「ン」に統一されています。

(d)そのほかにも、宣長大人は、「報」、「宝」、「保」などを「ハウ」としているが、古例では「ホウ」となっています(沼本前掲書、292ページ。又、築島前掲書、160ページ)。

(e)また、「中」は「チユウ」、「衆」は「シユウ」のように「ユ」を入れて表記しているが、これらは「チウ」、「シウ」のように「ユ」を入れないのが古例です(築島前掲書、125ページ、160ページ)。

 かつて、字音かなづかいを作ったのは、漢学者ではなく、国学者の本居宣長でした。現代において、宣長式の字音かなづかいの誤りを正しているのも、漢学者ではなく、国語学者であることは、日本漢字音の性格を示唆していて興味深いことです。漢学者は、中国のことにはやかましいけれども、日本のものである日本漢字音については、無頓着なのだと思われます。

  『大漢和辞典(修訂版)』(大修館書店)を始め、最近の漢和辞典や国語辞典では、(a)を改正するものが多くなってきました。しかし、(b)以下の問題点は、ほとんど手付かずのままですから、中途半端といわざるを得ません。(三省堂の『漢辞海』だけが例外的に古例による字音表記を再現しています。)また、(a)の改正についても、ほとんどの辞書は、無説明のまま、改正した字音で表記しています。ですから、宣長式の字音かなづかいを守っている一般書籍、たとえば『新釈漢文体系』(明治書院)などとの字音かなづかいの違いに、読者が迷うかもしれません。 「水の漢音をスヰとするのは誤りで、スイが正しい」程度の解説を入れてほしいものです。

 最近、字音の歴史的かなづかいは、非常に冷遇されています。本文は歴史的かなづかいで記述する場合でも、字音は現代かなづかいにする例が増えてきました。歴史的かなづかいは、実際の発音とは異なるだけでも厄介な上、上記のように問題が多いとなれば、「字音は現代かなづかいでよろしい」という判断になるのも、仕方がないかもしれません。



2004年11月3日公開。

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