現代中国音(普通話)に『広韻』の反切法が当てはまるかどうか試みておきましょう。(2)で例に出したのと同じ字を見てみます。
(a)成 是征切 是(shì) 征(zhēng)なので、
「sh」+「ēng」=「shēng」のはず。実際は「chéng」
「成」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 是 | 征 |
反切の表す音 | sh | ēng |
漢字音 | shēng(→chéng) |
(b)元 愚袁切 愚(yú)これは普通話では、声母のない「ゼロ声母」の音です。袁(yuán)もゼロ声母ですから、これがそのまま韻母になります。
「(ゼロ声母)」+「yuán」=「yuán」。実際の音も「yuán」なので、これはたまたま合っています。
「元」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 愚 | 袁 |
反切の表す音 | ゼロ | yuán |
漢字音 | yuán |
(c)幸 胡耿切 胡(hú)、耿(gĕng)なので、
「h」+「ĕng」=「hĕng」のはず。実際は「xìng」
「幸」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 胡 | 耿 |
反切の表す音 | h | ĕng |
漢字音 | hĕng(→xìng) |
(d)外 五会切 五(wŭ)、この字はゼロ声母です。そして会(huì)の韻母は、「wèi」となります。なぜかという説明は省略します。(中国語の教科書に載っている音節表を見ていただけば分かります。)したがって、
「(ゼロ声母)」+「wèi」=「wèi」のはず。実際は「wài」
「外」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 五 | 会 |
反切の表す音 | ゼロ | wèi |
漢字音 | wèi(→wài) |
(e)薬 以灼切 以(yĭ)、これはゼロ声母です。灼(zhuó)の韻母は「wó」なので、
「(ゼロ声母)」+「wó」=「wó」のはず。実際は「yào」。ただし、これは本来「入声」の字ですから、「入声」の消滅している「普通話」では、もともと韻書の反切は適用できません。
「薬」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 以 | 灼 |
反切の表す音 | ゼロ | wó |
漢字音 | wó(→yào) |
(f)風 方戎切 方(fáng) 戎(róng)なので、
「f」+「óng」=「fóng」のはず。実際は「fēng」。
「風」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 方 | 戎 |
反切の表す音 | f | óng |
漢字音 | fóng(→fēng) |
このように、現代中国語音(普通話)は日本漢字音よりも更に反切に合わない場合が多い。また、普通話では「入声」が消滅してしまっていますから、入声の字には反切は適用できません。
そもそも、『広韻』の音韻体系は、「切韻音系」といわれるもので、隋(ずい)の陸法言(りく・ほうげん)という人が作った『切韻』という韻書に基づいています。日本漢字音の漢音は、唐の始めころの音韻を伝えているので、まだ『広韻』と合うものも多いのです。
しかし、中国では唐代以降どんどん音韻が変化してしまったので、『広韻』が今の普通話の音に合わないのは当然のことです。つまり、『広韻』の反切から普通話の字音を知ることは、基本的には不可能です。『広韻』の反切から普通話の字音を調べたい場合は、『広韻反切今音手冊』(李葆嘉編著、中国:上海辞書出版社)などの工具書を使う必要があります。
本居宣長は当時の唐音(南京音)を「甚だしき謬音なり」と決め付けましたが、これは当時の南京音が韻書に合わなかったからです。今の「普通話」も、彼にかかれば「甚だしき謬音なり」と退けられてしまうことは、まず間違いないところです。
2004年11月3日公開。