漢字は「表意文字」ですから、どういう音であるのか見ただけでは分かりません。今なら日本漢字音を調べるには、漢和辞典を見ればよいのですが、漢和辞典は、ようやく明治の終わり頃になってから現れたものです。大正時代の漢和辞典としては、上田万年の『大字典』(今は講談社から新版が出ている)、服部宇之吉・小柳司気太の『詳解漢和辞典』(冨山房)、簡野道明の『字源』(角川書店)などが、今でも入手できます。これらは当時名著として、もてはやされたものです。
漢和辞典がないころは、『康煕字典』や『正字通』、『字彙』などの中国の字典を用いるほか、『広韻』などの韻書によって漢字音(漢音)を確かめていました。これらの本には漢字音が「反切法(はんせつほう)」で書かれています。「反切(はんせつ)」とは、漢字二文字で漢字音を表す方法で、現在でも大きな漢和辞典には載っております。知っていると面白いので、実例を挙げて説明しておきます。
(a)「成」という字の反切
「成」という字は、『広韻』では「下平声十四清」の韻にあり、音は「是征切」となっています。この「是征切」というのが反切です。「成」という漢字の音を「是」と「征」の二つの漢字で表しているのです。最初の「是」を反切上字、次の「征」を反切下字といいます。最後の「切」という字は反切であることを示すものです。 (なお、反切の表記は、「是征切」のように「切」字を用いるほか、「是征反」のように「反」字を用いたり、あるいは単に「是征」と二字の漢字だけで表されることもあります。)
さて、漢字の音は、声母と韻母に分解できます。というと難しそうですが、声母というのは、最初の子音(頭子音)のこと、韻母というのは頭子音に続く残りの母音の部分のことです。そして、反切上字で声母 (子音)を表し、反切下字で韻母(母音)を表すのが反切法なのです。このように、反切法は、漢字音を子音と母音に分解して表示する方法です。
「成」の字では、反切上字は「是(シ si)」 です。反切上字は声母(子音)をあらわしますので、「是(si)」 の子音「s」を表すことになります。一方、反切下字の「征(セイ sei)」 は、韻母(母音)を表します。つまり、「征(sei)」 から子音を取り去った「ei」が、その表す音です。「成」の字音は、反切上字の表す「s」と、反切下字の表す「ei」を再合成した「sei」になります。
これを図に書いて説明してみましょう。
「成」の字 | 反切上字 | 反切下字 |
漢字音の分解 | 声母(子音) | 韻母(母音) |
反切の字 | 是(si) | 征(sei) |
反切の字が表す音 | s | ei |
反切から再合成した漢字音 | s+ei → sei |
これを、簡単に、「s」+「ei」=「sei」、という式で表すことにします。 図も下図のように簡略化します。
「成」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 是 | 征 |
反切の表す音 | s | ei |
漢字音 | sei |
(b)「元」の字の反切
「 元 愚袁切 」(上平声二十二元の韻)
反切上字「愚」は「グ(gu)」なので、「g」。反切下字「袁」は「ヱン(uen)」。これは声母(頭子音)がない「ゼロ声母」の字なので、この字が表す韻母は「uen」です。ということは、「元」の音は、「g」+「uen」=「guen」となります。これは本来「グヱン」と書くべきです。ところが、本居宣長が定めた字音のかなづかいでは、「グワ」という音の表記はありますが、「グヰ」「グヱ」がないので、「グヱ」は「ゲ」に帰納されてしまいます。そこで、宣長式の表記では、「元」の字音表記は「ゲン」ということになります。
「元」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 愚 | 袁 |
反切の表す音 | g | uen |
漢字音 | guen |
ところで、同じ上平声二十二元の韻に「阮」という字があります。
「 阮 愚袁切 又 元遠切 」
「阮」は「愚袁切」でも「元遠切」でも「guen」(グヱン)という音になります。実をいうとこの字はベトナム人の姓に多い字です。「グエン」さんというベトナム人はたくさんおられますね。ベトナム語には、「グエ」という音があるので、「ゲン」さんではなく「グエン」さんになるわけです。宣長式の表記では、この字も「ゲン」になってしまいます。
(c)「幸」の字の反切
「 幸 胡耿切 」(上声三十九耿の韻)
「胡(コ ko)」、「耿(カウ kau)」なので、
「幸」の音は、「k」+「au」=「kau」、すなわち「カウ」です。
「幸」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 胡 | 耿 |
反切の表す音 | k | au |
漢字音 | kau |
(d)「外」の字の反切
「 外 五会切 」(去声十四泰の韻)
「五(ゴ go)」、「会(クワイ kuai)」なので、
「外」の音は、「g」+「uai」=「guai」、すなわち「グワイ」です。
「外」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 五 | 会 |
反切の表す音 | g | uai |
漢字音 | guai |
(e)「薬」の字の反切
「 薬 以灼切 」(入声十八薬の韻)
「以(イ i)」この字の音には、声母(頭子音)がありません。声母がないことを「ゼロ声母」といいます。反切上字が「ゼロ声母」の場合は、反切下字の韻母がそのまま字音になります。反切下字は「灼(シャク siak)」なので、
「薬」の音は、「(ゼロ声母)」+「iak」=「iak」、すなわち「イャク」→「ヤク」です。
「薬」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 以 | 灼 |
反切の表す音 | ゼロ | iak |
漢字音 | iak |
「反切法」の仕組みが、だいたいお分かりいだだけましたでしょうか。
ただ、『広韻』の反切とわが国の漢字音(漢音)とが、うまく合わないものもあります。次にその例を出します。
(f)「風」の字の反切
「 風 方戎切 」(上平声一東韻)。
「方」は「ハウ(fau)」、「戎」は「ジュウ(ziu)」ですから、「風」の音は、「f」+「iu」=「fiu」(フィウ)となりそうです。
「風」の字 | 声母 | 韻母 |
反切 | 方 | 戎 |
反切の表す音 | f | iu |
漢字音 | fiu (→fū) |
しかし、この字は「フウ(fū)」と読まれています。「フィウ」が訛って「フウ」になったものかもしれませんが、こういう字もあるので、『広韻』の反切を絶対視していると、ヘンテコな読み方をしてしまうことがあります。(『広韻』と漢音の整合・不整合の問題について詳しくお知りになりたい方は、沼本克明著『日本漢字音の歴史的研究 ―体系と表記をめぐって―』、汲古書院、を参照してください。)
さて、『広韻』の反切を、自分でも調べてみたい方と思われた方のために、ご案内します。わざわざ『広韻』を入手しなくても、『康煕字典』に『広韻』の反切が引用されていますから、それをご覧いただくのが、もっとも手っ取り早い方法です。『広韻』を入手したい方にお勧めの版は、台湾の藝文印書館から出ている『校正宋本広韻』です。コンパクトで、利用し易い本です。
2004年11月3日公開。