結論から申しますと、内容の理解の伴わない音読は無意味です。
たしかに中国語で音読すれば、文字の平仄や、漢文のリズムはよく分かります。しかし中国語で音読できても、「ちんぷんかんぷん」だったとしたら、苦労して音読したところで、得られるものは何もありません。それは、英語を音だけなぞって読むのと同じことです。(同旨:加地伸行著、『教養は死んだか』、PHP新書、101ページ)
これに対し、訓読は一種の翻訳ですから、訓読できるということは、かなり理解できていることになるのです。
ですから、私は音読と訓読を併用できれば、それがベストであろうと考えています。しかし、併用が無理であるならば、私たち日本人は訓読のほうを取るべきです。
なぜかといいますと、訓読のほうが中国語に比べて、習得が格段に容易だからです。中国語の習得は本当にたいへんです。習得するまでに、投げ出してしまうくらいなら、簡便な方法である訓読を選ぶべきです。
荻生徂徠の弟子である太宰春台(だざい・しゅんだい、1680-1747)も、訓読は廃止すべきではない、と言っています。たとい音読できても理解が伴わなければ無意味だから、というわけです(太宰春台著『倭読要領』巻中、読書法、勉誠社文庫版199ページを参照)。荻生徂徠の一派は、漢文を中国語で音読することを強硬に主張していましたから、太宰春台のこの発言には、重みがあります。
また、日本漢文を読む場合には、訓読で読むのが正統です。なぜなら、荻生徂徠ら一部の人を除いて、作者自身が訓読されることを前提として作品を書いているからです。このことは、音読の権威であられた倉石武四郎博士も主張しておられます(『支那語教育の理論と実際』、岩波書店、90ページ)。ですから、私たち日本漢文の学徒は、自信を持って訓読をしてゆけばよいのです。
2004年11月3日公開。