江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。
漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです。
長崎で用いられた中国の南方方言には、南京語、福州語、漳州語、泉州語があり、それぞれ専門の通詞(つうじ=通訳)がいました。(園田尚弘、若木太一編、『辞書遊歩』、九州大学出版会を参照)荻生徂徠に唐話を教えた岡島冠山は南京内通詞(稽古通詞)を務めていた人で、『唐話纂要』などの唐話辞書を作ったことや、『太平記演義』という『太平記』を『三国志演義』風に翻案した作品などで知られています。
当時の唐音がどんなものか、岡島冠山が編纂した辞書、『唐話纂要』第六巻に載っている孫八の物語から、最初の部分を引用してみます。(四声の注記は省略します。)
昔、 在 長崎、 有 孫八 者。 膂力 過人、 遊侠 自得。 後 有 事故、 而 被 官 逐放。 遂 為 干隔澇漢、 而 流落 京師。 旅宿 於 五条橋 辺。
(訳)昔、長崎に孫八(まごはち)という者がいた。力が人一倍強く、仁義を重んじていた。しかし、のちに事件を起こして追放され、疥癬を患って、京都へ流れてきた。そして、五条大橋の近辺に寄留した。
文体は、白話(話し言葉)と文語(すなわち漢文)が混じったような文体です。「干隔澇漢」はやや難語ですが、「疥癬」のような皮膚病のことです。文章に付けられているフリガナは、当時の寧波音だそうです。岡島冠山は、このほか南京音の教科書も作っているそうです。荻生徂徠はこういう発音を習っていたのだと思うと、非常に興味深いものがあります。
徂徠はどうして中国語での音読を主張したかというと、彼は本格的な漢詩文を作るためには、「和訓」を廃止せねばならないと考えていたからです。例えば、観・見・視・看の和訓は、いずれも「みる」です。しかし、これらの漢字の微妙な意味は、それぞれ異なります。和訓で「みる」と読んでしまうと、微妙な意味の差が分からなくなってしまうため、漢文を作るときにも間違った字を使ってしまうことになるのです。これがいわゆる「和習(わしゅう)」です。
彼の主張はもっともなものでしたから、今の「英会話」学習熱のごとき「唐話」学習熱が、全国に伝播しました。ただ、当時わが国は鎖国していましたので、中国音の音読をマスターするのはたいへん困難でした。そのためか、「唐話」の流行はその後次第に廃れてしまいました。もちろん、漢文訓読法も廃止されるには至りませんでした。
2004年11月3日公開。2013年10月19日一部修正。