ここでは、有名な『論語(ろんご)』の冒頭の文章を、中国語で読み、古文(=漢文)と現代中国語との違いを見てみることにします。
『論語』という書名は、中国語では「Lún yŭ(ルンユィ)」と読みます。「論」を「lùn」ではなく、「lún」と読むのは一種の読みならわしで、「異読」といいます。これについては後で述べます。→(11)
この『論語(ろんご)』冒頭の文章は、たいへん有名なもので、今でも高校教科書に出ていますから、皆さんもご存知だと思います。
(原文)
子曰、学而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。
(中国語で音読) これもカタカナはあくまで参考です。
子 曰、 学 而 時 習 之、 不 亦 説 乎。
ズ ユェ、シュェ アル ス シ ズ、 ブ イ ユェ ホゥ
有 朋 自 遠方 来、 不 亦 楽 乎。
イォゥ ポン ズ ユェンファン ライ、ブ イ ルォ ホゥ
人 不 知 而 不 慍、 不 亦 君子 乎。
レン ブ ズ アル ブ ユィン、ブ イ ジュンズ ホゥ
(訓読) 標準的な訓読に従っています。
子曰く、学んで時に之を習う、亦説ばしからずや。
朋の遠方より来る有り、亦楽しからずや。
人知らずして慍らず、亦君子ならずや。
(現代語訳) 標準的な解釈に従っています。
孔子がいわれた。「学んだことを、いつも復習するのは、なかなか愉快なことじゃないか。
友達が遠方から訪ねてきてくれたりするのも、楽しいことじゃないか。
人が分かってくれなくても、腹を立てないのは、なんとも立派な人物じゃないか。」
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、
「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」
と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と古文(漢文)では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 古文(漢文)を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません。
漢文と現代中国語との違いを見ていただくために、原文と現代中国語訳と対比してみます。原文と訳文では、語順などの文の構造は、ほぼ同じですが、語彙は全く違っています。これは、日本の古文、たとえば『源氏物語』と現代文では、文の構造は同じでも、語彙が全くちがうのと似ています。
(原文)子曰、学而時習之、不亦説乎。
(現代中国語訳)孔子説,学習知識而常常温習它,不是很高興的事嗎?
(原文)有朋自遠方来、不亦楽乎。
(現代中国語訳)有朋友従遠方来,不是很快楽的嗎?
(原文)人不知而不慍、不亦君子乎。
(現代中国語訳)不被人了解,而不生気,不是真君子嗎?
もうすこし細かく対比してみましょう。「=」は、古文の語彙を現代語の語彙に機械的に置き換えたことを示します。「→」は、機械的な置き換えでは対処できないため、「翻訳」したことを示します。
子=孔子
曰=説(shuō)
学→学習知識(なにを学んだか、目的語がいります。)
時=常常
習→温習它(これも目的語を補っています。なお、習之の「之」は、「これ」と読んでいますが、いわゆる再帰代名詞ではなく、リズムを取るための助字にすぎません。吉川幸次郎著『論語 上』、朝日選書、20ページを参照)
不亦・・乎=不是・・嗎?(「不亦・・乎」の「亦」は、ここではごく軽い助字で、意味をもたないため、「也」などに訳する必要はありません。吉川前掲書、20ページ)
説(yuè)→很高興的(事)
朋=朋友
自=従
楽(lè)→很快楽的
人不知→不被人了解(これは「人に分かってもらえない」と、受身に訳するほうが、しっくりします。)
不慍=不生気
君子→真君子(「偽君子」というのもあるので。)
漢文が現代中国語からみると「古文」であり、語彙にかなり違いがあることがお分かりいただけたと思います。
2004年11月3日公開。