漢文は訓読によって日本語にすっかり取りこまれておりますが、もともとは古代中国語の文語文です。そのため、漢文は訓読すべきではなく、中国語で棒読みするほうがよいという強い意見(荻生徂徠や倉石武四郎博士)があります。
日本漢文の場合は、外国文学ではなく国文学ですから、訓読で読むのが正統な読み方です。しかし、漢文は、東アジアにおけるインターナショナルな文学表現です。ですから、中国人は日本漢文をも中国語として読みます。
最近、中国・台湾でも日本漢文への関心が高まっています。ですから、われわれ日本人も漢文を中国語で読むとはどういうことかを、ある程度は弁えておく必要があると思います。そこで、本章で簡単に中国語に触れておくことにしました。
それでは、まず西郷隆盛(さいごう・たかもり、1827-1877)の漢詩を見ていただきましょう。
(原文)
偶成
幾経辛酸志始堅
丈夫玉砕恥甎全
一家遺事人知否?
不為児孫買美田
(訓読)
偶成
幾たびか辛酸を経て志始めて堅し
丈夫玉砕甎全を恥ず
一家の遺事人知るや否や?
児孫の為に美田を買わず
(訳)
たまたま出来た詩
なんども辛い目にあったおかげで、私の志は確乎不動のものとなった。
男子たるもの、玉となって砕けてこそ、生きたかいがあるというものだ。瓦となってまで生きながらえるのは恥だ。
我が家の家訓を、君は知っているか?
「子孫の為には財産を残さない」、というのだ。
あるとき私の職場で、昼休みに西郷隆盛のことが話題になりました。私は西郷さんのことは大好きですから、次の日、職場へ西郷さんの漢詩集を持って行き、同僚たちに見せました。 その中に上の漢詩がありました。
私の同僚に、中国で生まれ育った人がいます。彼は二十台の若者ですが、たいへん優秀な人です。彼がこの詩を中国語で読んでくれました。この詩は中国でも有名なものだそうです。
残念ながら、このサイトは「音声付き」ではないので、中国語の音声を再現することはできません。そこで、漢字にピンイン(発音ローマ字)を付け、次の行にカタカナで読みをつけてみました。しかし、カタカナ表記は、英語の「this is my bag.」を「ジス イズ マイ バッグ」と書くようなものですから、あくまで参考として見てください。 要するに、「this」が「ジス」ではないように、「幾(jĭ)」も「ジ」や「チ」ではないということです。
(中国語は今や大ブームなので、本屋さんにはCD付きの中国語学習書がたくさんあります。興味をもたれた方は、ぜひ勉強してみてください。)
(中国語の音読)
偶成
オゥツォン
幾 経 辛酸 志 始 堅
ジ ジン シンスァン ズ ス ジェン
丈夫 玉砕 恥 甎全
ザンフ ユィスェィ ツ ズァンチュェン
一家 遺事 人 知 否 ?
イジァ イス レン ズ フォゥ
不 為 児孫 買 美田
ブ ウェィ アルスン マイ ミェィティェン
さて、このときそばで聞いていた同僚の一人が驚いた顔をして、「中国語で読むときは、ひっくり返らないんだね!」と、言いました。
そうです。これは、とても重要な指摘です。中国語で音読するときには、「漢文訓読法」で読むときのように、ひっくり返らないのです。これには、意外な感じを受ける人が多いようです。しかし、それは全く当然のことです。なぜなら、漢詩文はもともと中国語の語順で書かれたものだからです。
それから、中国語で読むと、日本式に訓読するよりも、短くなります。それはなぜかというと、漢字はもともと一字が一音で、日本語のような「テニヲハ」がないからです。そのため、短く引き締まって聞こえます。
中国語の発音をご存知の方は、ぜひいちど漢詩文を中国語で読んでみてください。そうすると、漢詩文のもつ本来のリズムがよく分かります。とくに漢詩の場合は、平仄や韻がよく分かります。
ところが不思議なことに、中国語を知っていても、「漢文」となると日本式に訓読しなければならないと思いこんでおられる人が多い。とくに年配の方は全員「漢文と中国語は別のものだと思っていた」と言われるので、こちらのほうが驚いてしまいます。しかし、よく考えてみますと、漢文の中国語による音読は、昭和5年に倉石武四郎(くらいし・たけしろう)博士が一人で始められ、戦後になってから次第に広まったものです。それ以前は、わが国では「漢文」は訓読するものと決まっていたのですから、これは当然のことなのかもしれません。
※倉石博士が京都大学ではじめて音読による漢文講読を始められたとき、受業生の一人であった小川環樹博士は、そのときの驚きを次のように書いておられます。
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
漢文の書物を音読することは、江戸時代でも荻生徂徠の一派によって行われたのであったが、鎖国時代の国家間の人的交流がとぼしかったためもあって、広まらなかった。明治になってからは現代中国語を学んだ漢学者は少なくなく、私の知るところでは狩野君山先生のごとく、英語やフランス語とともに中国語を流暢に話された先生がある。しかしいわゆる漢文の書物を音読すべきことは、青木博士(青木正児)が大正十年に「支那学」誌上で、強く主張せられたにもかかわらず、博士が教えを執(と)られた東北大学においても、中国文学専攻の学生が極度に少なかったためであろうか、ついに行われなかった。その実行は倉石先生に始まる。私の同学の諸君には、このことに思い惑ったひとが多かった。しかし青木博士の説を読んでいた私には、英語やフランス語と同じく直下音読して、かえり読みをすることなく、原文の順序で文意を理解することは可能であると信じた。ただ私は初めに述べたごとく、幼時から素読によって漢文を知り、漢字の日本音と訓読に慣れきっていて、字の現代音をいちいち字書によって調べなければならないので、少なからぬ時間を費やすことになったが、徒労ではなかったと信ずる。しだいに音読の快い感じをも味わうようになった。(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176ページ)
2004年11月3日公開。2007年11月11日一部追加。