中江兆民が語った漢文の魅力は、「簡潔で力がある」ということでした。このことを更に実感できるように、例を挙げて説明します。
中国の古典には、『論語』、『老子』、『史記』など、面白いものがたくさんありますが、人気ナンバーワンの古典は、何と言っても『論語(ろんご)』です。これは孔子(こうし、前552-前479)という古代の賢人の言行録で、二千年以上も前の本ですが、非常に面白いものです。どうして面白いのか? 孔子は、本当に感情豊かで、とても率直な表現をするからです。
たとえば、子罕篇(しかん・へん)に「川上(せんじょう)の嘆(たん)」というのがあります。この段は非常に有名ですから、ご存知のかたも多いと思います。
(原文)子在川上。曰、逝者如斯夫。不舎昼夜。
(訓読)子、川の上に在り。曰く、逝く者は、斯の如きか。昼夜を舎かず。
(訳)孔子は、あるとき川のほとりで慨嘆された。「過ぎゆく者は、この川の流れのようなものであろうか。昼も夜も休むことがない。」
この言葉については、人生の無常を嘆いた悲観の言葉とする説と、川の尽きせぬ流れに無限の持続、無限の発展を見た楽観の言葉とする説が、古来対立しています(吉川幸次郎著『論語 上』、朝日選書、303ページ)。吉川幸次郎(よしかわ・こうじろう)博士は、随筆『読書の学』(筑摩叢書)で、執拗なまでにこの両説を検討されていますから、興味をもたれた方は、ぜひ読んでみてください。
このように両様の解釈ができるのは、文意が曖昧だからではありません。『論語』は古代の書物ですから、難解な部分があるのは事実です。しかし、この段についていえば、文意そのものは明快ですが、孔子がどういう心持でこの言葉を言っているかが問題になっているわけです。
私は両説の中では、むろん悲観説に与(くみ)します。川の流れのように、過ぎ去ったものは、二度と戻りはしない。人生にやり直しはききません。
しかし、私がここに「川上の嘆」をもちだした意図は、むろん感傷に耽りたいためなどではありません。実は、古代ギリシアにも、ほぼ同じ内容の「川上の嘆」があります。これら東西二つの「川上の嘆」を比較することで、漢文のすばらしい表現力を見ていただきたいのです。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(Heraclitus、Ηρακλειτοσ、前540-?)は、「万物流転」を唱えたことで有名ですが、年代的にも孔子と重なります。彼は、あるとき川のほとりで思索し、「川上の嘆」を漏らしました。
中江兆民が訳した『理学沿革史』(フイエー原著)からヘラクレイトスの言葉を引用してみましょう。(「理学」とは「哲学」のことです。明治の初め頃はphilosophyの訳語としては「理学」のほうが一般的だったのです。)
エラクリット既に理学に邃にして、又詩を善くし、極めて物を形容するに妙なり。是に於て、其の深念の際、一譬を設けて嘆じて曰えり、「吾人一たび足を河流に入るるときは、更に再び足を此の河流に入れんと欲するも得可らず。何ぞや。初め足を入れし時の水は、已に逝いて反らずして、後の水は復た前の水に非ざればなり。夫れ、水滔滔として流れて留まらず。前の者逝き、後の者来たり、是の如くにして窮已有ること無し。独り水のみに非ず。即ち我が身の如きも亦常に変転して不朽の物に非ず。之を要するに我なる者は、或いは有る乎。或いは無き乎。是れ未だ知る可らず。大哀と謂わざる可けんや。」
(『中江兆民全集4』、岩波書店、115ページ。ただし、現代表記にし、本文のカタカナはひらがなに変えて引用。)
(訳)ヘラクレイトスは哲学の奥義に達し、詩にも通暁していたので、物事を譬えで言い表すのが実にうまかった。あるとき、彼は深い思索の中で、次のような譬えを作り出し、慨嘆して言った。
「川の流れに足を踏み入れ、さらにもう一度、同じ流れに足を踏み入れようとしても、それは不可能である。なぜなら、最初に足を踏み入れた時の水は既に流れ去っており、次に踏み入れたときの水は、先ほどの水とは別物だからだ。水は滔滔(とうとう)と流れて留まることはなく、前の水は流れ去り、後の水が流れて来て、終わりがあることはない。これは水だけの話ではなく、私自身の肉体も常に変転していて、不朽のものではない。こうして見れば、私自身は果たして存在しているのか、存在していないのか。それさえ分からぬとは、なんという悲哀だろうか!」
いかがですか? 孔子もヘラクレイトスも、結局のところは同じ「人生の無常」を言いたいわけです。しかし、『論語』が「逝者如斯夫。不舎昼夜。」のわずか九文字で表現したことを言うために、ヘラクレイトスは滔滔(とうとう)数十言を費やさなければなりませんでした。 そのかわり、余韻というものが全くないくらいに、言いたいことは十二分に言い尽くしています。これが、中江兆民も指摘している東西の文章の違いです。
中江兆民は、『理学沿革史』の「凡例」に次のように述べています。
一、泰西の文、流暢富贍の極、重沓冗漫なるが如くにして、而して実は毎句観を異にし毎章容を殊にして、委曲婉美真に喜ぶ可し。而して直ちに之を訳して削る所無きときは、冗漫厭う可きを覚ゆ。然れども削るときは翻訳の本意に非ず。故に一一挙げて遺すこと無し。読者冗漫を以て咎と為すこと勿れ。
(訳)西洋の文章は、調子がよく形容に富むあまり、重複が多く冗漫であるように見えるが、実は一文・一章ごとに異なった趣があり、委曲を尽くして美しく、たいへん素晴らしいものである。ところが、それを削らずに全部翻訳してしまうと、冗漫で読むに耐えない文章になる。しかし、削れば翻訳とはいえなくなる。そこで、冗漫は承知で、すべて訳出してある。読者諸氏も、そのつもりで読んでいただきたい。
中江兆民が論じたように、漢文がいかに簡潔で力があるか、お分かりいただけたことと思います。委曲を尽くすのが好きな西洋人は、漢文は「簡潔すぎる」と感じるかもしれません。しかし、漢文は知識人のための文章ですから、分かりきったことを長長と書 くことはしないのです。
2004年11月3日公開。