日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第一章 漢文と日本文化




(6)中江兆民の漢文論

 明治時代の大文章家・中江兆民(なかえ・ちょうみん、1847-1901)は、漢文が国語のバックボーンであることをしっかりと見抜いていました。ですから彼は、フランス留学中にも怠らずに漢文の勉強を続け、帰国後には高名な漢学者・岡松甕谷(おかまつ・ようこく)に弟子入りして、漢文の作文を修行しています。

 そして、ルソーの『社会契約論』の最初の部分を漢訳し、註解をほどこして、『民約訳解(みんやく・やっかい)』という書物を作りました。これは、明治の漢文の中でも出色の出来栄えで、難解なルソーの原著をよく読み解いていることでも定評のあるものです。

 中江兆民が愛弟子・幸徳秋水(こうとく・しゅうすい、1871-1911)に語った漢文論が、幸徳が書いた伝記『兆民先生』に出ています。

(原文)

 先生(せんせい)()()(おし)えて(いわ)く、日本(にほん)文字(もじ)漢字(かんじ)(あら)ずや、日本(にほん)文学(ぶんがく)漢文(かんぶん)(くず)しに(あら)ずや、漢字(かんじ)(もち)ゆるの(ほう)(かい)せずして、()(ぶん)(つく)ることを()んや、(しん)(ぶん)(ちよう)ぜんとする(もの)(おお)漢文(かんぶん)()まざる()からず。()世間(せけん)洋書(ようしょ)(やく)する(もの)適当(てきとう)熟語(じゅくご)なきに(くる)しみ、(みだ)りに疎率(そそつ)文字(もじ)(せい)して紙上(しじょう)相踵(あいつ)ぐ、拙悪(せつあく)()るに()えざるのみならず、(じつ)()んで(かい)するを()ざらしむ。()(じつ)適当(てきとう)熟語(じゅくご)なきに(あら)ずして、彼等(かれら)素養(そよう)()らざるに()するのみ。(おも)わざる()けんやと。

 (また)(いわ)く、漢文(かんぶん)簡潔(かんけつ)にして気力(きりょく)ある、(その)(みよう)世界(せかい)冠絶(かんぜつ)す。泰西(たいせい)(ぶん)丁寧(ていねい)反覆(はんぷく)毫髪(ごうはつ)(のこ)さざらんとす。(ゆえ)漢文(かんぶん)(じゆく)する(もの)より(これ)()る、往往(おうおう)冗漫(じようまん)(しつ)して厭気(いやき)(しよう)(やす)し。ルーソーの『エミール』の(みよう)(もつ)てするも、()()をして(これ)(やく)せしめば、(その)紙数(しすう)三分(さんぶん)()(げん)ずるを()ん。()東西(とうざい)(ぶん)(おのおの)(その)長所(ちようしよ)(ゆう)す。(かの)ウオルテールの『シヤルル十二世』の(ごと)きは、文気(ぶんき)(ほとん)漢文(かんぶん)凌駕(りようが)す、ユーゴーの諸作(しよさく)(ごと)き、(また)(じつ)神品(しんぴん)(ぶん)(なり)(しか)(これ)真趣味(しんしゆみ)は、()原文(げんぶん)(つい)(はじ)めて(かい)するを()べくして、(けつ)して尋常(じんじよう)訳述(やくじゆつ)()(うつ)()(ところ)(あら)ざるや(ろん)なし。()(かつ)仏訳(ふつやく)の『パラダイスロスト』を()みて(ふか)(その)(みよう)(かん)ぜるも、(いま)(その)(こころ)()かざる(もの)あり、(おもえ)らく()原文(げんぶん)(つい)(これ)()まば(その)(かい)幾何(いくばく)ぞやと。(ゆえ)(もつ)(おお)学術(がくじゆつ)理義(りぎ)(しよ)(やく)せるも、(かつ)文学(ぶんがく)(しよ)(やく)せることなし、(およ)文学(ぶんがく)(しよ)(やく)する、原著者(げんちよしや)以上(いじよう)筆力(ひつりよく)()るに(あら)ずんば、(いたず)らに(その)妙趣(みようしゆ)戕残(しようざん)するに(おわ)らんのみと。(幸徳秋水『兆民先生』より。岩波文庫版では、31ページ。)

 

(訳)

 兆民先生は、われわれ書生連中にこういって教えられた。

 「日本の文字は漢字だ。そして文学は漢文訓読調の文章だ。だから、漢字の用法を理解しなければ、文章一つ作れない。本当に文章に上達したいなら、漢文をたくさん読む必要がある。洋書を訳している学者が、適当な熟語がないからといって勝手な熟語を濫造しているのをよく見るが、あんなものは、とても見られたものではないし、第一読んでも意味が分からない。実は適当な熟語がないのではない。彼等の漢学の素養が足りないだけだ。漢学の素養が必要なことは、このこと一つみてもよく分かるだろう。」

 また、こんなことも言われた。

「漢文のように簡潔で気力の充実した文章は、世界中探してもほかにはない。西洋の文章は、ばか丁寧に何度でも同じことを繰り返し、細かいところまで述べ尽くそうとする。こういう文章を漢文に慣れ親しんだ目で見ると、冗長すぎて嫌気を催してしまう。ルソーの『エミール』は簡潔な文章だが、私に訳させたら紙数を三分の一に減らしてみせるよ。とはいえ、西洋の文章は、漢文とは得意とする所が異なっている。たとえば、ヴォルテールの『シャルル十二世』の文章は、漢文を凌ぐほど気力の充実した名文だ。また、ユゴーの諸作品も、まさに神品ともいうべき大文章だ。しかしそのすばらしさは原文を読んではじめて分かるものであり、普通の翻訳ではとても再現できるものではない。私はかつてミルトンの『失楽園』を仏訳で読み、そのすばらしさにすっかり感服した。しかし心の奥では何かが足りない気がしたものだ。そして、英語の原文で読んだなら、どれほど愉快だろうと思ったよ。こういうわけだから、私は学術書をたくさん訳しているが、文学書を訳したことは一度もない。文学書を訳するには、原著者以上に筆が立たなければならない。そうでなければ、原書のすばらしさを無残に害うばかりだ。」

 

 幸徳秋水の『兆民先生』は、岩波文庫に入っていますから、「面白そう!」と思われた方は、ぜひ読んでみてください。きっと感動するはずです。※

※この岩波文庫版は、かつて中野重治(なかの・しげはる)氏が「こんど岩波文庫になったものは、かゆいところのほとんど先きのところまでカナが振ってあって助かります。」(「秋水の『兆民先生』」、『中野重治全集16』、筑摩書房、436ページ)と評されたもので、随所に振り仮名がふられ、読み易いように工夫されています。(しかし、肝腎の振り仮名に、ところどころ誤りがあるのは、玉に瑕・・・。)



2004年11月3日公開。

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