現代においては、江戸時代に漢文が国語同様に扱われていた名残は完全に払拭され、漢文は高等学校の古典で一通り学ぶだけになっています。しかし、日本文化を深く理解するためには、現代においても漢文を学ぶ必要があります。
まず、明治以前の史料を読むには、どうしても漢文の知識が必要です。ことに漢文の史料、たとえば『大日本史』や『事実文編』などを利用するには、漢文を学ばなければなりません。
そして、史料だけではなく、文学を読むためにも漢文は必要です。
たとえば、森鴎外の歴史小説『北条霞亭』は、頼山陽が書いた漢文の墓碣銘(ぼけつめい)の引用から始まります。漢文の引用文が読めなければ、この作品は読めません。
夏目漱石の作品では、『草枕』などは、難しい漢語をちりばめた絢爛たる文章ですから、漢文の素養がなければちょっと読めないと思います。
鴎外・漱石は、近代日本文学における双璧であり、現在でも尊敬を集め、彼等に関する新たな研究が次次と発表されています。
そして、彼等以後にも、芥川竜之介、中島敦、永井荷風、石川淳など、漢文の素養のある作家が輩出しています。ですから、近現代の日本文学を研究するにも、漢文の知識は必須です。
そしてなにより、漢語は現代日本語においても重要な要素です。
漢語が使えなければ、日本語で文章を書くことはできません。また、現代日本の文章は、明治の「普通文」(つまり漢文訓読体の文章)の影響を顕著に受けています。学術関係のかたい論文などは、とくにそうです。「蓋(けだ)し」、「所謂(いわゆる)」、「所以(ゆえん)」などの難しい言い回しで、思わず頭が痛くなった経験はありませんか? これらの語は漢文訓読体から来たものです。私は大学生のときに学術書を読み、それらのあまりにも古色蒼然たる文体に驚きました。ですから、現代においても「漢文」を完全に排斥することは不可能です。
2004年11月3日公開。