日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第一章 漢文と日本文化




(4)明治の西洋受容と漢文

 明治の知識人は、江戸時代における漢学の遺産を引き継いでいましたから、豊富な漢文の知識をもっていました。

 明治時代には、漢文訓読体(漢文崩し)の文体が標準的な文体として確立し、「普通文」と呼ばれました(小林芳規「漢文訓読体」、『岩波講座日本語10』所収、同書157ページ)。

 この「普通文」は、幕府時代に行われていた候文(そうろうぶん)を駆逐し、私用の文章だけでなく、公用文にも用いられるようになりました(山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』、宝文館出版、12ページ)。

 そして、西洋文化を摂取する際にも、洋語を漢訳して新しい熟語が作られました。たとえば、「symbol」という西洋語を漢訳して「象徴」という新熟語を作った人は中江兆民(なかえ・ちょうみん、1847-1901)です。中江兆民は、このほかにも、「美学」、「芸術」、「典型」などの新熟語を作っています(井田進也『中江兆民全集3』改題)。明治の新熟語は、あまりにもよくできたものが多かったため、清国人留学生らによって中国へ逆輸入されました。近代の熟語に日中共通のものが多いのはそのためです。

 漢文・漢語の知識は、わが国が西洋の文物を取り込む上で大きな役割を果たし、わが国の文化を大きく発展させました。もし漢語がなかったら、わが国は明治初年に、西洋文明に直面することはできなかったに違いありません。

 明治期には、漢文は江戸時代における国語同様という地位からは後退したものの、国語のバックボーンとして重要な役割を果たしていました。



2004年11月3日公開。

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