日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(22)漢文訓読を現代に活かすために(「素読」から文法理解へ)

 漢文訓読法は、以上に見たごとく、いろいろの問題はあるものの、われわれ日本人が漢文を理解するには、非常に有効な方法です。現代において、この漢文訓読を活かしてゆくためには、何が必要でしょうか?

 まず、江戸時代から明治の初期までと現代とでは、漢文の素養がまったく異なることを考えなければなりません。当時の教育では、子供にたくさんの中国古典を「素読(そどく)」させていました。「素読」とは、細かな意味は教えず、ただ声をだして漢文を訓読させる教育法です。大量の漢文を素読しているうちに、自然と漢文の意味が分かるようになるのです。もちろん、その域に到達するためには、非常に時間と労力をかける必要がありました。そして、このような悠長な教育法の実践は、明治以後には難しくなったため、「素読」は、今では全く廃れてしまいました。

 私は「素読」が方法として劣っていると主張しているわけではありません。ただ、それだけ大量な「素読」をする余裕が現代人にはないと思うのです。具体的にどの程度の素読が課されていたのか、宇野哲人・乙竹岩造・外著『藩学史談』(文松堂書店)の記事から見てみましょう。

 津藩・有造館(三重県)  対象年齢 9歳~15歳 

 論語 孟子 詩経 書経 易経 礼記 春秋左氏伝 十八史略 史記 前後漢書 綱鑑易知録 資治通鑑 (同書12ページ参照)


 仙台藩・養賢堂(宮城県) 対象年齢 8歳~三度落第したら退学

 孝経 小学本註 四書集註 近思録 春秋胡氏伝 公羊伝 穀梁伝 周礼 太載記 (生徒の望みにより、史記 漢書 等も教授)(同書369ページ参照)


 長州藩・明倫館(山口県) 対象年齢 8歳~14歳

 孝経 大学 論語 孟子 中庸 詩経 書経 易経 春秋三伝 礼記 小学(同書181ページ、191ページ)

 さて、この明倫館の課業は厳しく、「小学生素読」の試験では、五経十一冊と小学四冊を「誤読遺忘」なきように覚えなければなりませんでした。これは容易なことではなく、合格者が非常に少なかったので、試験を分割して行うようにするなどの緩和策が講じられたほどであったといいます。(同書195ページ)

 以上は各地の藩学の状況ですが、私塾でもほとんど変わらないカリキュラムで教育が行われていたようです。たとえば、福沢諭吉は少年時代に私塾で学んだ体験を自伝に書いていますが、次のような驚くべき勉強量です。(『福翁自伝』、岩波文庫旧版、23ページ) 

 白石(しらいし)(じゆく)()漢書(かんしよ)如何(いか)なるものを(よん)だかと(もう)すと、経書(けいしよ)(もつぱ)らにして論語(ろんご)孟子(もうし)勿論(もちろん)、すべて経義(けいぎ)研究(けんきゆう)(つと)め、(こと)先生(せんせい)()きと()えて詩経(しきよう)書経(しよきよう)()うものは本当(ほんとう)講義(こうぎ)をして(もらつ)()()みました。ソレカラ蒙求(もうぎゆう)世説(せせつ)左伝(さでん)戦国策(せんごくさく)老子(ろうし)荘子(そうじ)()うようなものも()講義(こうぎ)()き、其先(そのさき)(わたくし)(ひと)りの勉強(べんきよう)歴史(れきし)史記(しき)(はじ)前後(ぜんご)漢書(かんじよ)晋書(しんしよ)五代史(ごだいし)元明史略(げんみんしりやく)()うようなものも()み、(こと)(わたくし)左伝(さでん)得意(とくい)で、大概(たいがい)書生(しよせい)左伝(さでん)十五巻(じゆうごかん)(うち)三四巻(さんしかん)仕舞(しま)うのを、(わたくし)全部(ぜんぶ)通読(つうどく)(およ)十一度(じゅうひとた)読返(よみかえ)して、面白(おもしろ)(ところ)暗記(あんき)して()た。


 江戸時代の教育は、もちろん「素読」だけだったわけではなく、「会読」や「講義」もあるわけですが、これだけ漢文の勉強をするのは、現代においては困難です。 

 それでは、現代において、速成的に漢文の読解力をつけるには、どうすればよいのでしょうか? それには、英語の学習とおなじように、文法の理解が必要です。漢文法を習うことが、漢文読解力の向上のために、非常に有効なのです。

 英語でも、文法にもとづいて内容を理解できなければ、「直訳」すらできません。漢文も同じで、文法の理解なしでは訓読(=直訳)を誤ることにもなりかねません。ですから、訓読法を堅持する立場からも、文法の学習を忽(ゆるが)せにすることはできないのです。

 そこで、次章では漢文の文法について入門的な知識を紹介してみます。



2005年3月27日公開。

ホーム > いざない > 漢文と日本文化 > 訓読を現代に活かすために

ホーム > いざない > 漢文と日本文化 > 訓読を現代に活かすために