前章に述べたように、訓読は一種の直訳ですから、当然のことながら文の意味が理解できていなければ訓読はできません。
ところが、「訓読」といえば訓点(返り点と送りがな)に従って読んでゆけばよいだけだと考えている方が多いようです。しかし高校の漢文教科書のような訓点が打ってあるテキストは、実はすでに「訓読」されたものなのです。訓点に従って読むことは、訳文を読むのと同じことです。本当の「訓読」とは、白文(はくぶん)に訓点を打つことをいいます。
白文とはどのようなものかといえば、訓点も句読点もない、漢字だけがならんでいる文章です。例えば、次のようなものです。『日本外史』から例文を採ってみましょう。
(白文)
秀吉之在関東也遊於鎌倉観源頼朝塑像進撫其背曰若我友也徒手取天下唯有吾与若而已然若承藉名族不如吾起人奴也吾欲遂略地至明若以爲何如
これを書き下してください・・・というのが、ほんとうの「訓読」です。明治時代の高等学校の入試問題は、こういう形式で出題されていました。(塚本哲三著『漢文解釈法』、有朋堂書店などを参照。)
白文を「訓読」するには、まず句(sentence)に分けてみなければなりません。句に分けることを「句読(くとう)を切る」といいます。
(句読を切った文)
秀吉之在関東也、遊於鎌倉、観源頼朝塑像。進撫其背曰。若我友也。徒手取天下、唯有吾与若而已。然若承藉名族。不如吾起人奴也。吾欲遂略地至明。若以爲何如。
最近では、中国で出版される古典の本などにも、白文のものはほとんどなく、上のように句読を切ってあるのが普通です。ですから、訓読練習の当面の目標は、上のような句読を切った文が読めるようになること、としておけばよいでしょう。
上の文を訓読すると、次のようになります。
(訓読)
秀吉之関東に在る也、鎌倉に(於)遊び、源頼朝の塑像を観る。進んで其の背を撫でて曰く、「若は我が友也。徒手にて天下を取れるは、唯吾と若与而已有り。然るに若の藉を名族に承くるは、吾の人奴より起るに如かざる也。吾遂に地を略して明に至らんと欲す。若以て何如と爲す。」と。
(現代語訳)
秀吉は関東に居たとき、鎌倉へ行って源頼朝の塑像を見物した。彼は像の前に出て行くと、像の背中を撫でながら言った。「貴様は俺の友達だ。手ぶらで天下を取ったのは、俺と貴様しかいない。しかし貴様が名家の出身なのは、俺が人の家来から身を起こしたのに比べれば物の数ではない。俺は他国を侵略して、明の国にまで版図を広げようとしているぞ。貴様には真似できまい。」
江戸時代から明治初期までの人々は、幼時から素読を受けて、たくさんの漢文を読んでいたので、自然と訓読法が身についていました。しかし、現代の私たちは、読んでいる漢文の量が圧倒的に少ないので、意識的に漢文法を学ばなければ、漢文を訓読することができません。
本章の「漢文法入門」は、江戸時代の人人が素読によって感覚的に会得していた読解法を意識的に会得していただくことを目標として書きました。これは英文の読解法をモデルにしたものです。私は漢文を学び始めた頃、「せめて英文と同じくらいの速さで漢文を読んで理解できたら」とつねづね思っていました。本章の方法を実践していただくと、かなり速く読めるようになるはずです。
2007年7月16日公開。