前項で例示した、「英文訓読」の特徴をまとめてみます。
(a)英語の音は、あまり重視しないこと。
教室ではもちろん英文を音読しますが、下手くそな発音でも構わず、直訳することのほうが重視されていました。(英語の先生でも、発音の下手な人がたくさんいました。)
(b)すべての語に逐語訳を付けようとすること。
極端なことをいえば、定冠詞の ‘a’ まで「一つの」と訳してしまいます。
(c)訓読は英語の文法ではなく、日本語の文法によること。
This | is | my | bag. |
これは | です | わたしの | かばん |
という例文では、英語のbe動詞 ‘is’ の訳語として日本語の助詞「です」が当てられています。しかし、‘is’ と「です」が等価であるわけがありません。日本語の直訳を便宜的に当てはめると「です」という語に相当するというだけのことです。要するに、「英文訓読」は英語の文法を無視し、日本語の文法で読んでいることになります。(これは漢文訓読でも同様です。)
(d)逐語訳の訳語は、ある程度一定させようとすること。
「英文訓読」では、書き下した日本文は多少変になりますが、訳語をできるだけ一定させてパタン化しようとしています。
O | yes, | Ned. | I | will! |
おー | 然り | ネッドよ | 私は | あろう |
これは、前項で出した例文では、助動詞の ‘will’ を「あろう」と訳したので、ハリー君の答えは「ネッドよ、私はあろう。」とたいへんおかしな文章になっています。しかしこれは、
Harry, will you come out with me to fly my kite?
という疑問文の答えですから、 ‘will’ のあとに実は ‘come out’ という語句が省略されているのです。それを補うと、「私は(外に来るで)あろう」となります。しかし「訓読」では、そのような細かい調整はしません。「(外に来るで)あろう」のように補うならば、もはや「訓読」ではなく、「意訳」になってしまいます。
(e)そのまま日本語の順序に書き下すと、「直訳体」となること。
「英文訓読体」は、「ネッドよ、私はあろう」で見たように、日本文としては不完全な文章です。しかし、英文訓読(英文以外の欧文訓読も含む)の影響で、「欧文脈」といわれる文体が形成されたことは、国語史上非常に重要です。
森岡健二氏が指摘している「欧文脈」の特徴を、いくつか挙げてみます。詳しくは、同氏編著『近代語の成立 文体編』(明治書院)430ページ以下を参照してください。
「彼」「彼女」などの人称代名詞の多用。
「彼自身」(複合代名詞)、や「彼女のそれ」(指示代名詞)の登場。
「○○する所の」という関係代名詞からくる語法。
「その路が、君を導く」のような、無生物主語の使用。
「自分を見出す」、「恐怖を持つ」などの動詞の特殊用法。
「これより又一層○○」、「○○というよりむしろ△△」などの比較級の直訳。
ほかにもまだありますが、このくらいにしておきます。(ちなみに、漢文訓読からは「漢文脈」が形成されています。)
このような「欧文脈」もしくは「欧文直訳体」は、大正・昭和と時代が進むと、次第に流行らなくなりました。松下大三郎(まつした・だいさぶろう)博士は、昭和2年刊行の『標準漢文法』(紀元社)で、「英文訓読」の衰退を惜しんで、次のような感想を書いておられます。
日本人は漢文を日本読(にほんよみ)にして漢文を日本語に同化して仕舞った。此れ世界文化史上驚くべき大事業である。日本人の祖先の偉大であった点はここにも十分に認められる。英文などもそうなるべき筈であった。然るに近代人は其所(そこ)へ気附かずに直訳を捨てて意訳に走ることとなった。明治の初年に企てられた直訳は今日では蕩然(とうぜん)として地を掃(はら)い纔(わずか)に直訳的句調の若干を現代文に伝えるに過ぎなくなったことは誠に惜しむべきことである。(同書8ページ。現代表記に変えて引用。)
2005年3月27日公開。