日本漢文の世界:本の紹介

書名 兆民先生
副題
シリーズ名 岩波文庫 青125-4
著者 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい)
出版社 岩波書店
出版年次 令和5年(2023年)
ISBN 9784003312599
定価(税抜) 700円
著者の紹介 著者(1871-1911)は明治の無政府主義者。大逆事件に連座させられ処刑された。
所蔵図書館サーチ 兆民先生 : 他八篇(岩波文庫 ; 33-125-4)
Amazonへのリンク 兆民先生 他八篇 (岩波文庫 青125-4)
本の内容:

 岩波文庫から幸徳秋水の『兆民先生』の新版が出ました。本書の旧版は、筆者の学生時代の愛読書の一つだったので、新版の出来は嬉しいことです。新版は基本的に旧版の内容を引き継いでいますが、文字が大きく読みやすくなり、秋水が執筆した記事が4編追加され、新たに人物や事件等についての注解が付されています。
 秋水は明治の社会主義運動の草分けの一人ですが、官憲から危険視され、でっちあげられた「大逆事件」の首謀者とされて、明治44年(1911年)刑場の露と消えました。
 秋水は、青年時代に「東洋のルソー」と称される中江兆民(1847-1901)のもとに寄宿し、兆民との師弟関係のもとで思想家、新聞記者としてキャリアを築いていきました。
 本書は思想家としても文章家としても大成した秋水が、師・兆民から受けた薫陶を文章化したもので、激越と言ってもよい高い調子で兆民を一個の理想主義者として称揚しています。
 兆民は明治4年(1871年)にフランスに留学し、哲学、史学、文学等を研鑽して、明治7年(1874年)に帰国しました。その後、元老院書記官、外国語学校長などの官職につきますが、すぐに辞職し、仏学塾を作って政治、法律、歴史、哲学を講じました。かたわら、文部省の嘱託を受けて『維氏美学』『理学沿革史』などの翻訳を行っています。(本書15ページ等)
 また、自由民権運動の理論的支柱をにない、ルソーの民約論を漢文に訳して注解をほどこした『民約訳解』を著したほか、西園寺公望の「東洋自由新聞」、板垣退助の「自由新聞」をはじめ新聞や雑誌に健筆をふるい、『三酔人経綸問答』等を著作しました。
 明治20年(1887年)、保安条例の発布により東京から追放されると、大阪に拠点を移し、「東雲新聞」を発行して政府を攻撃しました。秋水はこのころ兆民に入門しています。
 明治22年(1889年)、明治憲法が発布されたときの兆民の反応を秋水は次のように記しています。
 明治二十二年春、憲法発布せらるる、全国の民歓呼(かんこ)沸くが如し、先生嘆じて曰く、吾人(ごじん)賜与(しよ)せらるるの憲法果して如何(いかが)の物(もの)乎(か)、玉(たま)耶(か)将(は)た瓦(かわら)耶、未だ其(そ)の実(じつ)を見るに及ばずして、先ず其の名に酔う、我が国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと、憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯(た)だ苦笑する耳(のみ)。(本書22-23ページ。新仮名遣いに直して引用。以下同様。)
 明治23年(1890年)に議会が開設されたとき、兆民は大衆から推されて国会議員となりますが、藩閥政府に買収される議員たちの腐敗堕落に憤り、すぐに辞職しています。(本書26-27ページ)
 その後、政治運動を成功させるには金銭が必要だと痛感して実業家に転身しますが、彼の理想主義的経営はことごとくうまくゆかず、失敗つづきでした。(本書32ページ)
 そのような中で喉頭癌を発症して余命一年半の宣告を受け、生前の遺著として『一年有半』『続一年有半』を著し、明治34年(1901年)55歳で死去しました。(本書73-74ページ)
 兆民の疾風怒涛の人生を弟子・秋水は満腔の同情をもって熱烈な筆致で描き出しています。その中には、親しく接した者にしか書き得ない兆民の平生の様子や、談話の内容なども活写されており、貴重な記録となっています。
 兆民は明治一代のフランス学者であるとともに、当代の碩学・岡松甕谷(おかまつ・ようこく、1820-1895)に師事した漢学者でもありました。彼の一見失敗にも見える人生を豊かなものにしていたのは、まぎれもなく漢学の素養でした。本書第六章「人物」を読めばそれがよく分かります。
 一夜(いちや)月明(げつめい)に乗じて庭園を歩(ほ)す、樹林蓊鬱(おううつ)として黒く、池水(ちすい)瀲灔(れんえん)として白し。先生俯仰(ふぎょう)する者(こと)久しくして、予を顧みて曰く、我れ此の景に対する毎に、杜甫の「四更山吐月、残夜水明楼 [四更(しこう)山(やま)月を吐き、残夜(ざんや)水(みず)楼を明(てら)す]」の句を想起せざることなし、絶唱なる哉(かな)と。
 先生の詩を論ずるや必ず杜甫を説き、酔えば常に「出師未捷身先死、長使英雄涙満襟 [出師(すいし)未(いま)だ捷(か)たざるに身(み)先(ま)ず死し、長(とこし)えに英雄をして涙(なみだ)襟(きん)に満(み)たしむ]」の句を吟ぜり、李白に至りては即ち曰く、彼や真に千古の一人也(なり)、而も少陵(しょうりょう=杜甫のこと)の真気(しんき)惻々(そくそく)人を動かすが如くならず、少陵は慷慨(こうがい)の忠臣なり、太白(たいはく=李白のこと)は無類の酔漢のみと。(本書47-48ページ)
※杜甫の詩の訓読は修正しました。
 兆民が秋水に語ったのはここまでなのですが、秋水はここから暴走します。
 先生の杜詩を愛するは、独り其の詩を愛するのみならず、実に其の人物の高きに拳々(けんけん)たりしが故(ゆえ)也、而して其の人物に拳々たりし所以(ゆえん)の者は、実に夫子(ふうし=先生)自ら第二の少陵たりしが故ならずんばあらず。
 先生の飄逸(ひょういつ)放縦(ほうしょう)、酒を被り世を罵るや、皮相より之を見る、頗(すこぶ)る太白の遺風あるに似たり、然れども其の一生を通して凛乎(りんこ)たる操守あり、血性あり、慷慨の節あるは、宛然(えんぜん)として少陵其の人たりし也、而して其の文や亦(また)仔細に之を見る、冷嘲冷罵の間、自(おのずか)ら至誠至忠の痛涙を蔵して蒼涼(そうりょう)沈鬱(ちんうつ)、人を泣かしめる者、宛然として散文的杜詩に非ずや、而して其の身世(しんせい)亦(また)轗軻(かんか)潦倒(りょうとう)、宛然として明治の少陵其の人に非ずや。
 然り先生は、太白に非ずして少陵なりき、司馬徽(しばき)に非ずして諸葛亮なりき、本多佐渡に非ずして、真田幸村なりき。(本書48ページ)
※個人的な希望ですが、脚注などの形式で、「拳々」などの漢語や、「司馬徽」「本多佐渡」などの歴史上の人名などにも簡単な注釈を付けていただくと、非常に読みやすくなると思います。
 まさにアジテーターの文章ですが、このような高揚した熱気を文章化できることが秋水の持ち味であり、彼が名文家と称される所以(ゆえん)です。
 ただ、兆民は秋水が描いたような単純な理想主義者ではありませんでした。もっと幅の広い面白い人物であったことは、兆民の著書『三酔人経綸問答』や『一年有半』を一読すれば分かります。本書に描かれた兆民は、あくまで秋水が「かつて見たる所の先生のみ」、「今見つつある所の先生のみ」(本書8ページ)ということなのです。
 本書の「第五章 文士」(本書36ページ以下)にある兆民の漢文論も注目すべき部分です。筆者が過去に書いた記事でも紹介していますので、ご覧ください。→中江兆民の漢文論

 漢文訓読調で書かれている本書は、今日の読者にはとっつきにくいものです。本書の旧版は、かつて中野重治氏が「こんど岩波文庫になったものは、かゆいところのほとんど先きのところまでカナが振ってあって助かります。」(『本とつきあう法』)と評したもので、総ルビに近いくらいルビ(振り仮名)が振ってありました。新版は旧版のルビの多くを受け継いでいますが、自明なものは省略し、読みやすく整理されています。
 また、旧版では引用されている漢詩文の訓読を原文の右側のルビで表現していましたが、新版では原文とは別個に訓読文をカッコ付きで付加しています。そのため、旧版よりも格段に読みやすくなっています。
 本書の熱気は原文でしか味わえないので、ぜひ若い人たちにも本書を手に取り、熱気に満ちた秋水の文章を、原文で読んでいただきたいと思います。

 ただ、不満な点もあります。
 旧版の漢詩文の訓読やルビには所々に誤りがあり、惜しいことだと思っていました。新版ではそれらが修正されていることを期待していましたが、残念ながら誤りの多くが新版でも踏襲されていました。いちばん残念に思った箇所を挙げておきます。
 若いころ兆民は当代の碩学・岡松甕谷(おかまつ・ようこく)に師事しました。兆民は甕谷の説く「記実の法」に共鳴し、他の弟子たちと共に湯浅常山の『常山紀談』を漢訳しました。甕谷は兆民ら苦心の『訳常山紀談』に添削を加え、序文を書いています(本書37-38ページ)。その序文の冒頭部分が本書に漢文のまま引用されているのですが、残念なことに旧版の訓読の誤りが新版でも踏襲されています。以下にあるべき訓読を示しておきます。

(あるべき訓読) 余の都に入りてより、諸生の業を受くるを請う者有らば、必ず先ず授くるに記実の法を以てす。文簡先生(=甕谷の師・帆足万里)の遺教に従う也(なり)。中江子篤(なかえ・しとく)之を見て喜んで曰く、「子の法に循(したが)えば、東西言語同じからずと雖(いえど)も、未だ写すに漢文を以てす可らざる者有らざる也」と。遂(つい)に二三子(にさんし)と謀(はか)りて、『常山紀談』を取り、相い伝えて之を訳す。余も亦(また)極力刪定(さんてい)し、已(すで)にして成る。彙(あつ)めて十巻と為し、以て後進の士に便(べん)す。相い継(つ)いで門に及ぶ者、則(そく)を取る。
 

2024年12月7日公開

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