書名 | 江戸幕府と儒学者 |
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副題 | 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の戦い |
シリーズ名 | 中公新書 |
著者 | 揖斐 高(いび たかし) |
出版社 | 中央公論新社 |
出版年次 | 平成26年(2014年) |
ISBN | 9784121022738 |
定価(税抜) | 860円 |
著者の紹介 | 著者(1946-)は成蹊大学名誉教授。『江戸詩歌論』(汲古書院)、『遊人の抒情 柏木如亭』(岩波書店)、『江戸の詩壇ジャーナリズム』(角川書店)などの著書があります。 |
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本の内容: 江戸時代にはそれまで思想的中心をなしていた仏教が衰え、代わって儒学が盛んになりました。その流れに中心的な役割を果たしたのが、幕府の儒官・林家(りんけ)です。 しかし、林家は明治以後、著者が「まえがき」でいうように「人間性を否定する封建教学の守護神」「強権的な幕府政治に迎合する権力の走狗」「思想的な独創性を持たない凡庸な儒者」と罵倒され、否定の対象とされてきました。しかし、朱子学を幕府の教学として導入させ、江戸時代の平和と安定に思想面から一役買った林家の役割は見直すべきではないのか。そのような視点から林家の初代・羅山(らざん)、二代目・鵞峰(がほう)、三代目・鳳岡(ほうこう)の伝記をとおして、林家の果たした役割を再検討したのが本書の趣旨です。 林家初代である林羅山(はやし・らざん)については、これまでにも著作が多く、さまざまな批評がなされてきました。彼は博学で著作も多かったが、家康にうまく取り入る曲学阿世の面があり、その象徴的事実が有名な「方広寺鐘銘事件」で、鐘の銘文に「国家安康」とあるのを「家康」の名を分断させた等と豊臣家に言いがかりを付けるのに彼は一役買ったとされています。 しかし、著者は、方広寺鐘銘事件で羅山が主導的役割を果たしたとの通説に疑問を呈します。当時の家康の行状を記した『駿府記(駿府政事録)』や『本光国師日記』等の史料を丹念に読んでみると、事件発生当時の羅山の地位は幕府の書物係にすぎず、少なくとも事件発生当時には羅山は事件には全く関わっていなかった、というのです(本書11ページ)。家康は、五山の僧侶らを集めて牽強付会の難癖を考えさせ、豊臣家を窮地に陥れたのです。 しかし、鐘銘への難癖を、『勘文』(かんもん=考証文の意)にまとめたのは、有能な書記官であった羅山でした(本書14ページ)。漢文の作法を完全に無視して、難癖を並べ立てたこんな文章を作ったのですから、羅山は「曲学阿世」の批判を免れることはできません。しかし、著者は次のように羅山を弁護します。(本書25ページ) 先に見たように、羅山の「勘文」そのものは「曲学」の謗りを免れないものである。しかし、そこに己(おの)れの世俗的な立身出世の欲望のために権力者に媚びたとする、羅山の「阿世」の姿勢のみを見ようとするのは公正ではない。むしろ、主君家康に託して理想的な王道政治の実現を夢みた、羅山の朱子学者としての「志」をこそ見るべきではないかと思う。そこにあるのは、「治国平天下」の王道政治実現という大目的のためには、「曲学」という小過失はやむなしとする、現実主義者羅山の姿である。羅山のその姿勢は剃髪問題にも現れます。当時の幕府には「儒官」の職制がなく、室町幕府以来、学問で仕えるのは僧侶の職であったため、羅山は剃髪・法体(あたまを剃り、僧侶の衣を着ること)を幕府から命令され、「道春」という法号(僧侶としての名)で幕府に出仕したのです。幕府は「法印」という僧侶の位を羅山に与えました。 これに対し、同時代の儒者・中江藤樹が「林氏剃髪受位弁」という文章を書いて、儒者として風上にもおけぬ行為であると強く詰ったのは有名な話です。著者は次のように羅山を弁護します。(本書38ページ) 羅山としては「青雲の士」となり、幕府内で朱子学の影響力を発揮し定着させてゆくためには、法印位を受けるのは已(や)むを得ない選択だと考えた。それは儒教において聖人とされる太伯や孔子が習俗に従って断髪し郷服(地方の役人と宴飲する時に着る礼服)を着たのと同じ「国俗に随う」行為にすぎないと主張したのである。大きな正しい目的のためには、一時的には世俗的慣習に随うことも余儀なしとする、羅山の「目的合理的行為」(マックス・ウェーバー)をここにも見ることができる。二歩前進するためには、一歩の後退は已むなしとする、現実主義者羅山の姿があった。このようにして羅山は単なる秘書官のような職務から、朝鮮通信使との外交文書作成、「武家諸法度」「禁中并公家諸法度」などの公文書作成と公布、歴史書の編纂などと次第に重要な職務を獲得し、幕府内での地位を向上させていきます。そして、羅山没後はこれらが林家の事業として子孫が継続していくことになるわけです。 しかし、二代目・鵞峰、三代目・鳳岡も、羅山の遺した家業を維持・発展させるために、戦わなければなりませんでした。 二代目・鵞峰は、父・羅山の死亡により中絶した編年体国史『本朝通鑑』の編集に命をかけ、その途上、将来有望と目されていた長男・梅洞(ばいどう)の死という大きな挫折をも乗り越えて完成させました。そして、家塾の制度も整い、多くの門人を抱えるようになります。 三代目・鳳岡は、優秀な兄・梅洞の死後、不断の努力で家業を発展させ、五代将軍・綱吉の寵愛を受け、「大学頭(だいがくのかみ)」に就任し、それまでの剃髪・法体を改め、蓄髪を許されることになります。しかし、六代将軍・家宣は新井白石を重用して林家を疎んじたため、林家の権威は低下します。 八代将軍・吉宗は新井白石らをしりぞけ、林家は復権しますが、林家の後継者たちは学問のレベルを維持・発展させることができず、書物の鑑定間違いなどの失態を繰り返したため、将軍の期待に応えることもできず、次第に凋落していくことになります。また、新井白石、荻生徂徠、室鳩巣といった気鋭の学者たちが活躍し、林家の学問は次第に時代遅れの凡庸なものと見なされるに至るのです。 本書は、今やほとんど顧みる人もおらず、活字での出版もなされていない林家文書を丹念に読み込み、林家三代の実像に迫ろうとした労作です。三代それぞれの性格をよく捉えて、活き活きとした人物像を描いています。 本書では省略された四代目以降の林家は、学問的権威は衰えたとはいえ、林家塾は「寛政異学の禁」の舞台となり、のちに官学「昌平黌」(しょうへいこう)となって幕末に多くの人材を輩出しています。林家は江戸時代の教育や思想に深くかかわっているのです。 | |
2017年3月26日公開。 |