日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第二章 漢文と中国語




(6)「和習(和臭)」について

 (4)の荻生徂来のところで、「和習」のことが出ましたので、これについて説明しておきます。

 「和習」とは、「日本人が漢文を作るとき、日本語にひきずられて、漢文の語彙語法にあわなくなった部分」であると定義したいと思います。

 「和習」に関心をおもちの方は、まず最初に神田喜一郎(かんだ・きいちろう)博士の『和習談義』という文章をお読みください。(『墨林間話』、岩波書店、99ページ以下。同朋舎の全集版では、Ⅸ巻105ページ。)「和習」は、「和臭」と書くこともありますが、神田博士によれば、江戸時代の学者は多く「和習」と書いているとのことなので、ここでは「和習」という表記を使用することにします。

 神田博士によりますと、「和習」ということを始めに言い出したのは、荻生徂徠です。徂徠先生が指摘した和習には三種があり、それぞれ(a)和字、(b)和句、(c)和習の呼称を与えられています。

(a)和字 徂徠先生のいう「和字」とは、「和訓を以て字義を誤るもの」です。つまり、見と視、聴と聞、などの用字を誤ることです。これは、いわゆる「同訓異義」の字を混同してしまうことから起こるのです。

(b)和句 徂徠先生のいう「和句」とは、「位置上下の則を失う」ものです。要するに、訓読で漢文を読む習慣が付いていると、いざ漢文の作文をすると、語順など文法的な誤りを犯してしまうことです。

(c)和習 徂徠先生のいう「和習」は、(a)和字、(b)和句の誡めは犯さなくても、「語気声勢の中華に純ならざるもの」、要するに語気や音調が中国人のそれになりきっていないことをいいます。

 今日では、徂徠先生の指摘した三つの誡めを犯したものを「和習」と総称しています。だとすると、中国人の詩文には当然「和習」はないはずなのですが、神田博士によれば、中国人の詩文にも「和習」はちゃんとあるのだそうです。「そんなバカな!」と思われるでしょう? 種明かしをしますと、中国人でも教養のない者は、ずいぶん拙劣な詩文を作ります。その稚拙さはまるで「和習」のようだ、というわけです。神田博士は、こういうのは正確には「和習」ではなく「俗習」というべきだと言っておられます。(同書107ページ、全集版113ページ)

 中国人の作品だからというだけで、ありがたがってはいけません。逆に日本人の作品は「和習」だらけで読むに値しないという考えも、思い込みにすぎません。本物を見抜く目を養うことが大切です。それには、やはり、本物の傑作をたくさん読むことが必要です。なお、「和習」の判断は、現代中国語をよく知っているだけではできません。中国の古文、すなわち漢文に通じていて初めてできることです。吉川幸次郎博士は、次のように書いておられます。

 いったい江戸時代の人人の漢詩文は、ごく初期の林羅山その他少数者をのぞき、大てい語学的に正しく、日本語的な語法の混入、すなわちいわゆる「和習」は、ある種の人人が軽率に予想するほど、多くはない。いささか余談にわたるが、たとえば頼山陽の「日本外史」は、日本漢文にすぎぬという批評があるが、私はそうは思わない。私がそう思わぬばかりでなく、清朝末年の名批評家、譚献(だんけん)は、その読書の日記「復堂日記」の同治十二年の条に、記していう、
「日本外史を読んで、信玄謙信紀に至る。両才相い当り、人の神(たましい)をして王(さか)んならしむ。」
 またおなじく譚献の日記の光緒八年の条では、「日本外史」再読の印象として、「左伝」と「史記」の文章をまねたまね方のうまさは、明の王世貞をしのぐと、激賞する。山陽外史の漢文をいんちきだという人は、むしろその人自身の学力のいんちきさを疑われずばなるまい。(以下略) (『続人間詩話』その九十三、吉川幸次郎全集第一巻、561ページ)

 頼山陽は和習の権化のように誤解されているようですが、『日本外史』は、吉川博士が書いておられるように、立派な漢文です。

 最近読んだ本の中にも、頼山陽の有名な「雲耶山耶呉耶越」(雲か、山か、呉か、越か)という「泊天草洋」の詩句を引いて、これは日本語としては調子がよいが、漢詩としてはおかしいと、けなしているものがありました。

 しかし、「雲耶山耶・・」という句を見て江戸時代人が想起するのは、蘇東坡(そ・とうば)の「山耶雲耶遠莫知」(「書王定国所蔵煙江畳嶂図、王晋卿画」)という詩句であったはずです。「雲耶山耶」が蘇東坡の詩句に基づくことは、多くの人が指摘するとおりです。(たとえば小島憲之著『ことばの重み―鴎外の謎を解く漢語―』、新潮選書、93ページを参照。)「雲耶山耶」という言い方が日本語にすぎないと言うなら、東坡居士の詩も日本語になってしまいます。東坡居士が「遠莫知」(遠くして知るなし)と言ったのはやや平凡ですが、山陽先生が「呉耶越」と雄大に展開したのは非凡であり、まさに換骨奪胎といえましょう。当時の人人が賞賛したのも当然だと思います。

 なお、この詩の第二句は「水天髣髴青一髪」ですが、この「青一髪」が和習だという意見もあるようです。しかし、小川環樹博士は次のように述べておられます。

 ところで第二句の「青一髪」は奇語というべきだが、山陽の独創ではなくて、宋の蘇軾(東坡)の詩に前例がある。「杳杳(ようよう)として天低く鶻(こつ)の没する処、青山の一髪なるは是れ中原」の二句がそれである。詩は「澄邁(ちょうまい)駅の通潮閣」(その二)と題し、晩年の蘇東坡が流されていた海南島から赦免されて、北へ帰る途中、島の北岸まで来て、海を隔てた中国大陸の南端の山山をはるかに眺めたときの感慨を叙する。「青山一髪是中原」、ひとすじの髪のような青い山山、あれこそ中原だ、と東坡は歌った。
 この蘇詩を初めて読んだのも、三十年以上も前のことだったが、そのとき私がただちに想到したのは山陽の詩であって、彼は蘇詩から「青山一髪」の四字を截(き)り取って「青一髪」の三字につづめたに違いないと考えた。これは小さなことだけれど、山陽の詩学の淵源の一つが蘇東坡に在ることを示すものである。そこで私がたまたま作っていた蘇詩の注(『蘇軾』下、「中国詩人選集二集」6、岩波書店)の中で、このことに言及しておいた。付け加えて言えば、山陽はこの「青一髪」の表現がよほど気に入っていたと見える。別の古詩「壇の浦行」にもこの三字を用いた句があるからである。「南のかた予山を望めば青一髪」。(『頼山陽の詩文について』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、100ページ)

 東坡居士の詩は、江戸時代の知識人が好んで読んでいたものですから、江戸時代の漢詩文を論ずるほどの人なら、常識として知っておくべきです。出典の考証もろくにせずに、古人の作品を「和習」などとけなすのは、古人を誣(し)いる恥ずべき行為です。



2004年11月3日公開。

ホーム > いざない > 漢文と日本文化 > 和習(和臭)について

ホーム > いざない > 漢文と日本文化 > 和習(和臭)について