姓・号 | 星野 豐城(ほしの ほうじょう) |
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生没年(享年) | 天保10年(1839)- 大正6年(1917) (79歳) |
諱(いみな) | 七五三蔵(しめぞう=幼名)→恒太郎(こうたろう)→恒(ひさし) |
字(あざな) | 徳夫(とくふ) |
通称 | |
雅号 | 豊城(ほうじょう) |
謚(おくりな) | |
出身地 | 越後国蒲原郡白根町 |
師の名 | 木村環洞、塩谷宕陰 |
官職等 | 東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文学博士、正三位勲一等 |
代表的著作 | 稿本国史眼(重野成斎、久米邦武と共著)
古文書類纂(1冊) 豊城存稿(2冊) 豊城賸稿(1冊) |
伝記: 豊城は、越後の貧家に生まれた。幼時より学を好み、郷里で木村環洞に師事して漢籍を学んだが、家事の合間を見ての苦学だったという。21歳のとき、師のすすめで、丹後の野田笛浦のもとに赴いたが、到着したとき笛浦は既に没していた。その後、江戸に上り、塩谷宕陰の学僕となる。宕陰は、その才を愛し、養子縁組して別家を相続させようとしが、豊城の両親が許可せず、実現しなかった。 明治2年、郷里の水原県学校教授に任じらたが、同3年廃校となり、その後は家塾を開いて教授した。 明治8年4月、上京して修史館三等協修に任じられ、同21年文科大学教授となり、没するまでこの職にあった。同24年文学博士。同30年帝国学士院会員。 大正6年9月10日、脳膜炎で没。享年79。 | 2003年8月10日 |