姓・号 | 帆足 愚亭(ほあし ぐてい) |
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生没年(享年) | 安永7年(1778)- 嘉永5年(1852) (75歳) |
諱(いみな) | 万里(ばんり) |
字(あざな) | 鵬卿(ほうけい) |
通称 | 里吉(さときち) |
雅号 | 愚亭(ぐてい)、西崦(せいえん)など |
謚(おくりな) | 文簡先生(ぶんかんせんせい = 私謚) |
出身地 | 豊後(大分県)日出(ひじ)藩 |
師の名 | 脇愚山 |
官職等 | 日出藩家老 |
代表的著作 | 帆足万里全集(主要著作の大部分を収録。ぺりかん社による復刻版あり。) 窮理通(8巻) 帆足先生文集(3巻) 入学新論(岩波日本思想体系47に所収) 東潜夫論(岩波文庫) |
肖像:
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伝記: 帆足万里は一般には「万里(ばんり)」と本名で呼ばれることが多いが、弟子筋は敬意をこめて、「文簡先生」とおくりなで呼ぶ。 日出藩の家老の家柄で、17歳で脇愚山の門に入る。21歳のときに大阪に遊学し、中井竹山に会い、24歳のときには福岡の亀井南冥に会った。しかし、この二人の所説に不服であったと、若き日の著作『肄業餘稿』に書いている。 脇愚山の師・三浦梅園の影響で博物学に志ざし、オランダの書物を読むために、40歳をすぎてからオランダ語を独学で学び、数年で習得した。オランダの書物を渉猟して得られた研究成果は『窮理通』八巻にまとめられている。これは、当時の最先端の天文学・物理学の説に独自の考察を加えたものと評されている。『窮理通』は、生前には刊行されず未定稿のまま写本で伝えられ、大正15年の『帆足万里全集』で始めて全編が印刷された。 著作には、『窮理通』のほか、随筆集『肄業餘稿』、学問全般を論じた『入学新論』、斬新な政策論である『東潜夫論』、文章作法を論じた『修辞通』、そのほかには『医学啓蒙』などがある。また、漢学の方面でも論語、易、左伝等の注釈を作っている。 日出藩が財政危機に瀕したとき、藩主の強い希望により家老に任じられ、藩政の立て直しに当たった。ときに55歳。家老職を引き受けるにあたり、藩主から一切口出ししないとの約束を取りつけ、塾を閉鎖して城に詰め、思う存分に改革の腕を振るった。徹底した改革の結果、わずか3年の在任中に財政再建が実現したばかりか、財政に余裕が出るほどになった。万里が没したとき、藩主より「予が家に大勲労あり」(帆足文簡先生墓碑銘)との言葉を賜っている。 弟子、岡松甕谷(おかまつ・ようこく)によると、万里は「記実の法」、すなわち事実の記録を特に重視し、弟子たちに虚飾を廃した記録中心の文章法を教えた。その趣は著書『修辞通』にも見える。この文章法は、甕谷の弟子、中江兆民にも影響を与えた。 | 2003年1月19日公開。 |