日本漢文の世界

姓・号 藤谷 竹溪(ふじたに ちくけい)
生没年(享年) 天保5年(1834)-明治37年(1904) (71歳)
諱(いみな) 英(えい)
字(あざな) 興道(こうどう)
通称 関右衛門(せきうえもん)
雅号 竹渓(ちくけい)
謚(おくりな)  
出身地 淡路国(兵庫県)洲本
師の名  
官職等  
代表的著作 竹渓詩文鈔(二巻)
肖像:

井上梧陰 日本漢文の世界

伝記:

 兵庫県淡路島の漢学者、藤谷竹渓については、伝記が不詳であったため、洲本市役所にお伺いしたところ、「洲本市史」(1974年発行)の595~596ページにある記事をメールで送ってくださいました。洲本市教育委員会様のご厚意により、以下にその全文を掲載させていただきます。

 藤谷竹渓は天保5年(1834)12月、洲本に生まれた。名は英、字は興道、通称関右衛門、竹渓と号した。築屋敷に住んでいた。漢籍詩文章をよくして加、能、越、播の各州を漫遊した。
 『竹渓詩文鈔』二巻を明治35年、洲本町川添町27番地から出している。その序文の初めに大阪の山本憲が、「つねに書生で淡路から来て、予の門に入る者は必ず藤谷竹渓先生の儒雅を口にしないものはなかった。」と書いている。
 病気になって臨終に長子(紫瀾)を枕辺に呼んで「日露戦争の今日なれば葬費を除き、僅少たりとも、軍資に献納せよ」と遺言した。また、自ら戒名を附して竹渓茅屋近士と称え、偈句を次の通り書いて37年2月25日没、年71歳。
 「無私物何迷 身快心爽行」
 竹渓の嗣子は哲太郎、紫瀾と号した。慶応3年(1867)の生まれであった。明治17年洲本中学校(津名、三原両郡の組合立の学校)を卒業後、家庭で父竹渓から漢学を修め、大阪に出て、詩を石橋雲来に学び、帰淡してやはり教育に携わった。
 昭和4年12月『紫瀾詩鈔』を著し、翌昭和5年9月には『補正紫瀾詩鈔』を発行した。この詩鈔から大阪朝日新聞や、雑誌では『日本及日本人』など多くのものに転載されている。昭和19年9月没。年79歳。
(『洲本市史』595~596ページ)
2003年4月29日公開。

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