藤樹書院 位置図(赤枠部分)
藤樹書院境内見取図
「藤樹先生補伝」『藤樹先生全集』第5冊197ページ
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226462
まずは、藤樹書院の概要を見ておきましょう。
『藤樹先生全集』所収の「藤樹書院境内見取図」には、藤樹書院の敷地面積は1段2畝29歩とあります。1段(たん=「反」とも書く)は300坪(つぼ)、1畝(せ)は30坪、1歩は1坪ので、1段2畝29歩は389坪(1,286㎡、約13アール)ということになり、かなり広い敷地です。
藤樹の旧宅は敷地の北側にありましたが、藤樹の急死後、一家は離散してしまいましたので、早い時期に旧宅は失われました。しかし、敷地の南側にある書院の建物は、村人たちが大切に守り続けていました。
旧藤樹書院間取り
「藤樹先生補伝」『藤樹先生全集』第5冊162ページ
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226462
記念館展示 旧藤樹書院間取図
藤樹の墓のところでも引用しましたが、天明5年(1785年)頃に、藤樹書院を訪問した貴重な記録が橘南谿の『東西遊記』にありますので、引用します。
このたび、よき序(ついで)なれば、墓にも謁し講堂をも一見せばやとおもいて、大溝(おおみぞ)の東の加茂という所より南へ入る事八丁にして、小川村に至る。農夫、老婆までもくわしく道を教え、迷う事もなくて講堂の前に出でたり。雨戸とざしあれば、そのとなり志村周助という医者の許(もと)へ案内して、講堂を拝したき由(よし)いい入るるに、「まず玄関へ上り給え」という。
「草鞋(わらじ)がなければ、只(ただ)かりそめに講堂の案内を」といえど、強いて足そそぎの水など持ち来たるまま、やむ事を得ず、草鞋(わらじ)、脚半(きゃはん)など解きて玄関へ上るに、周助出(い)で迎(むか)う。四十ばかりの惣髪(そうはつ=医者の髪型)なり。茶煙草の世話も行き届きたり。余、講堂を拝見し、神主(しんしゅ=位牌)をも拝したき由(よし)乞(こ)えば、周助奥に入り礼服を着して、講堂の鍵を手に持ち、「いざ来たり給え」と引き連れて行く。さて、講堂を開きたるに、堂はかやぶきにて、間数(まかず)四間(よま)あり。書院南面にて十五畳、掾(えん)がわ有り。向(むこ)うと西脇(にしわき)に押入あり。これ書院の講場なり。その次、対客の間(ま)八畳に床(とこ)あり。その次拾畳、その次台所なり。
正面掾側(えんがわ)の上に「藤樹書院」という四字の額あり、分部昌命拝書とあり。
十畳敷の間に、朱熹の白鹿洞(はくろくどう)の規則を板に書きてかけたり。さばかり相違の学風なるに、この文をかけられたるも殊勝(しゅしょう)に覚(おぼ)ゆ。押入の内に深衣(しんい=中国式の礼服)を着せる絵像(えぞう)あり。釈菜(せきさい=孔子をまつる祭礼)の時の図という。その前に厨子(ずし)あり。その内に神主(しんしゅ)あり。上箱に、「先生姓は中江、諱(いみな)は原(げん)、字(あざな)は惟命(これなが)、号は頥軒(いけん)、藤樹先生と称す。慶安元年戊子(ぼし)八月廿五(にじゅうご)日に卒(しゅっ)す(=亡くなる)。邑(むら)の東北、玉林寺に葬むる」の十八字あり。箱の内の神主(しんしゅ)は常法のごとし。
さて、ことごとく見終わり、周助宅へ戻り、「いかなればかくこの堂を司(つかさど)り給う」と問うに、「父祖代代門人にして、殊(こと)に昔よりかく隣家に住み、今にては先生の子孫も無ければ、かくは預り来たれるなり。殊更今にてはよき門人もなくなりぬれば、毎月六度ずつ村民を集め論語を講ずるも、某(それがし=私)を無理にその人に当てられて、勤め申すなり。又春秋の釈菜(せきさい)も、村中集まり勤むるにも、某(それがし)を頭取(とうどり)とせるゆえ、かく鍵をも預かり居る事なり。講堂の修覆は領主より力を添えられて、領主も折々参詣あるに、礼服を着せずしては堂中へ入り給わず」となり。
中略
この講堂の建ちしも(藤樹の)死去一二年前の事なり。先生の嫡子・徳右衛門、常省(じょうしょう)先生と称す。多病なりしかど寿は七十一才まで保てり。その人子無くして中江氏の子孫絶え、今は無し。対馬の家中に兄弟の家ありて、今に中江を名乗るとの噂なりと周助語れり。されども、その余教近郷に深く染(そ)み入りて、ことさらこの小川村の百姓は、年若き者といえども毎夜集会して手習(てならい)し、かりそめにも酒など打のみ、乱舞音曲などすることなく、まして博奕(ばくえき)などはいうまでもなし。故に、いかなる軽き者といえども物書かぬものはなしという。
誠にこの辺(へん)の風儀(ふうぎ)温和淳朴(おんか・じゅんぼく)にして、見る所、聞く所感に堪えず、あり難き事どもなり。
(橘南谿『東西遊記』平凡社東洋文庫版では第1巻64~66ページ「藤樹先生」の項)
天明5年(1785年)といえば藤樹没後約140年ですが、まだ藤樹による感化のあとが地域に根強くのこっていた様子がよく分かります。このころには、藤樹の子孫や弟子たちはもはや誰もいなくなっていたので、『東西遊記』に出てくる志村周助さんのような地元の篤志家たちが藤樹書院の管理をしていたのです。
ところが、明治13年(1880年)に小川村に大火が起こります。近隣の建物はすべて灰燼(かいじん)に帰し、書院の建物も焼失してしまいました。大火の際には、村人たちが自分たちの家も火事になっているのに、そんなことはそっちのけで書院から藤樹の遺品を運び出したといいます。
現在の藤樹書院間取図
「藤樹先生補伝」『藤樹先生全集』第5冊197ページ
国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子:info:ndljp/pid/1226462
現在の藤樹書院間取略図(筆者作成)
現在の藤樹書院
大火からわずか2年後の明治15年(1882年)、有志の協力により仮書院が再建されました。これが現在の藤樹書院です(「藤樹先生補伝」:『藤樹先生全集』第5冊197ページ)。藤樹の死後約230年を経た明治時代になっても、村人たちの間では藤樹への尊敬がいささかも衰えておらず、即座に仮書院を再建を決断、実行した熱意には驚くばかりです。
2024年12月7日公開。