日本漢文へのいざない

 

第一部 日本文化と漢字・漢文

第四章 漢文訓読について




(20)漢文訓読の問題点の検討6(白話文の訓読)

(g)漢文訓読法は、中国語の口語文(白話文)には適用できないこと。

 訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます。つまり、文語(文言)の文章だけしか訓読法で読むことができないのです。

 中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです。

 白話文を無理に訓読すると、どのようになるのでしょうか? その一つの例として、幸田露伴(こうだ・ろはん)苦心の『水滸伝(すいこでん)』訓読訳(大正12年)を紹介します。これは、『国訳漢文大成』と『露伴全集』に入っておりますから、誰でも容易に見ることができるものです。

 以下には、露伴訳『国訳忠義水滸伝』から、魯智信(ろ・ちしん)が柳の木を引っこ抜く場面(第七回)を引用してみましょう。まず、原文を引用しますが、これは飛ばして訓読のほうだけを見ていただいても結構です。

(原文)

 智深也乗着酒興、都到外面看時、果然綠楊樹上一箇老鴉巣。衆人道、「把梯子上去拆了、也得耳根清浄。」李四便道、「我与你盤上去、不要梯子。」智深相了一相、走到樹前、把直綴脱了、用右手向下、把身倒繳着、却把左手扳住上截、把腰只一趂、将那株綠楊樹帯根抜起。衆溌皮見了、一斉拝倒在地、只叫、「師父非是凡人、正是真羅漢身体。無千万斤気力、如何抜得起。」智深道、「打甚鳥緊。明日都看酒家演武器械。」衆溌皮当晩各自散了。従明日為始、這二三十個破落戸見智深匾匾的伏、毎日将酒肉来請智深、看他演武使拳。


(露伴訳『国訳忠義水滸伝』より。現代表記で引用しています。また読みやすいように改行しています。)

 智深(ちしん)また酒興(しゆきよう)乗着(じようちやく)し、(すべ)外面(がいめん)(いた)()(とき)果然(かぜん)綠楊樹(りよくようじゆ)(じよう)一箇(いつこ)老鴉巣(ろうあそう)あり。

 衆人(しゆうじん)()う、「梯子(はしご)()りて(のぼ)()って拆了(たくりよう)せば、(また)耳根(にこん)清浄(しようじよう)()ん。」

 李四(りし)便(すなわ)()う、「(われ)(なんじ)(ため)盤上(はいのぼ)()らん、梯子(はしご)(よう)せず。」と。

 智深(ちしん)(そう)(りよう)する一相(いつそう)(はし)って樹前(じゆぜん)(いた)り、直綴(じきとつ)()って脱了(だつりよう)し、右手(ゆうしゆ)(もつ)(した)(むか)い、()()って(さかさ)まに繳着(しやくちやく)<注:(まと)わり()くる(なり)(もと)(かえ)(いきおい)をなしてというも()(なり)し、(かえつ)左手(さしゆ)()って上截(じようせつ)(ちゅう)上截(じようせつ)(うえ)(ほう)()らえとどめる(なり)。>扳住(はんじゆう)し、(こし)()って(ただ)一趂(いつちん)(ちゅう)(ちん)(ちん)(おな)じ、()(なり)(いきおい)(じよう)じて追求(ついきゆう)するを(ちん)という、ここは(こし)をのしたる(なり)()(一(いつ))株(しゆ)綠楊樹(りよくようじゆ)()()()びて抜起(ばつき)す。

 (しゆう)溌皮(はつぴ)()(おわ)って、一斉(いつせい)拝倒(はいとう)して()()り、(ただ)(さけ)ぶ、「師父(しふ)()凡人(ぼんじん)(あら)ず、(まさ)()(しん)羅漢(らかん)身体(しんたい)千万(せんまん)(きん)気力(きりよく)()くんば、如何(いかん)()()(おこ)さん。」

 智深(ちしん)()う、「(なに)鳥緊(ちようきん)()さん<注:(きん)はしっかり(なり)(せつ)(なり)(ちよう)(かろ)しめ(あなど)()()はなす。一句(いつく)、なんでもないことというなり。>明日(みようにち)(みな)酒家()()(えん)器械(きかい)使(つか)うを()よ。」

 (しゆう)溌皮(はつぴ)当晩(とうばん)各自(かくじ)(さん)(おわ)る。明日(みようにち)より(はじめ)()して、()二三十(にさんじつ)()破落戸(ごろつき)智深(ちしん)()匾匾的(へんへんてき)<注:ひれふして>(ふく)し、毎日(まいにち)酒肉(しゆにく)()(きた)りて智深(ちしん)()い、(かれ)()(えん)(けん)使(つか)うを()る。


 これは本当にすごい訳です! 『水滸伝』の原文を訓読法で忠実に直訳しようと苦心しています。愚直なほどの苦心ではありませんか! しかし、これを読んで一体どれだけの人が理解できるのでしょうか? 大正時代の人人は、本当にこれを読みえたのでしょうか? 露伴先生苦心の訓訳も、読者がなくては空しいものとなります。

 なぜ、これほど理解しがたい訳文になるかというと、露伴先生は漢文訓読の方式にのっとって、二字以上の語を忠実に音読しているからです。「老鴉巣」を「ろうあそう」と読んだのでは、何のことか分かりません。これは、「老鴉(からす)の巣(す)」と読んでおけばよかったのです。

 この部分は、駒田信二訳では次のようになっています。(駒田信二氏による現代語訳、『中国古典文学大系28 水滸伝上』平凡社、89~90ページより)


 智深も一杯機嫌で、みんなと外へ出て行ってみると、なるほど柳の木に鴉の巣がある。
「梯子でのぼってこわしてしまえば、耳のけがれもさっぱりするな」
とみながいうと、李四が、
「おれがのぼってやろう。梯子はいらん」
 智深はしばらく見ていたが、やがて木のそばへ歩みよって衣をぬぎすて、右手を下にしてさかしまに抱きつき、左手で上のほうをかかえ、腰をぐっといれると、柳の木は根こそぎにひっこ抜かれてしまった。ならず者たちはそれを見ると、いっせいに地面にはいつくばっていう。
「お師匠さまはただ人ではない。まったく羅漢さまそのものです。千万斤を挙げる力がなくては、とてもひき抜けるものではございません。」
「なにこれしきのこと。あしたは武芸をやって、得物(えもの)を使ってみせてやろう」
 ならず者たちはその夜はそれぞれ帰って行ったが、その翌日からというもの、この二三十人のごろつきたちは智深を見るとへいへいとひれ伏し、毎日酒や肉を持ってきてご馳走し、その武芸や拳法を眺めているしまつ。

 ところで、露伴訳のような白話文の訓読は、戦後まで行われていました。私の父(昭和10年生まれ)が大学生のとき、つまり昭和30年前後に、大学で魯迅(ろ・じん)の作品を訓読で読む講座があったそうです。しかし、中国語学習の普及とともに、このような白話文の訓読は行われなくなりました。苦心して訓読するよりも翻訳するほうがよいからです。



2005年3月27日公開。

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