書名 | 古典について |
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副題 | |
シリーズ名 | 講談社学術文庫 |
著者 | 吉川 幸次郎(よしかわ こうじろう) |
出版社 | 講談社 |
出版年次 | 令和39年(2021年) |
ISBN | 9784065231807 |
定価(税抜) | 960円 |
著者の紹介 | 著者(1904-80)は京都大学名誉教授。 |
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本の内容: 本書は著者の日本の漢学に関する随筆集で、多くは当時の新聞・雑誌への寄稿文です。半世紀以上前の著書の再刊ですが、いま読んでも十分楽しめます。著者は専門家ではない一般読者に対して、専門的な内容を分かりやすく語る手腕では斯界随一であり、当時の読書界で人気を博していました。この度の再刊では、文庫版のほか電子書籍版も登場したのは有り難いことです。 本書の第I部「古典について」では、明治以降の古典学が精緻さを失い、きめの粗いものになってしまったことを嘆いています。それまで盛んであった古典の注釈が廃れ、辞書の学問へ移行してしまったことを挙げ、言葉とはその古典の中の言葉なのであり、辞書は最大公約数的な解釈を示すのみであり、これはその古典の言葉の正解ではないと言っています。 第II部「受容の歴史ー日本漢学小史」では、日本が中国やインドなどの他のアジア諸国と違い、自国の文明に自信を持たないことを指摘しています。その原因は明治政府の功利的な欧化政策など近代に起因するものではなく、古代から中国文明を受容してきたために、自国ではなく外国に価値を置くようになったからだといいます。それが古代から現代まで続いているのです。その中国文明への関心が最高潮に達したのが江戸時代であり、伊藤仁斎、荻生徂徠といった人々により、中国文明は咀嚼され、血肉化されました。そして明治維新後には外国への関心は今度は中国から西洋に向かったのです。 第Ⅲ部「江戸の学者たち」では、古典の注釈学において著しい業績をあげた三人、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の業績を紹介しています。伊藤仁斎は朱子学をはじめとする宋学が「理」という抽象概念をもとに孔子の学問を理解することに疑問を抱き、古代の人の心情を理解するには古代の人の言葉や生活をもとに理解しなければならず、後世の概念をもとに解釈すれば必ず誤るとして、『論語古義』を書きました。荻生徂徠はこの『論語古義』に大いに触発されて仁斎に手紙を書きますが、すでに臨終近い仁斎はこの手紙に返事を書くことができないままに亡くなり、返事を貰えなかった怨みを後々まで引きずっていた徂徠は仁斎の『論語古義』に対抗して『論語徴』を書きます。徂徠の方法は、言語生活まで中国人になり切るというもので、長崎通詞に中国語を習うなど、徹底していました。本居宣長は国学では賀茂真淵の弟子ですが、漢学では徂徠の孫弟子にあたる人で、徂徠の緻密な方法を受け継ぎ発展させました。 著者はのちに『仁斎・徂徠・宣長』(岩波書店)という本を著すほど、この三人に傾倒していますが、三人の中ではもっとも伊藤仁斎を評価しています。仁斎の文章について、本書では次のように言っています。 しかも仁斎が、その時代における学問の第一人者であることは、人人のうたがわぬところであった。その漢文も、はなはだすぐれ、これまで啓蒙期の学者の漢文の、おさなさ、たどたどしさを、一掃した。羅山の漢文とくらべると、隔世の感がある。ひとりそれまでの漢文と比較してそうであるばかりでなく、私の読んだ範囲では、日本人の書いた漢文の、第一流に位する。元禄時代は、芭蕉、西鶴、近松と文豪を出した。しかしもう一人の文豪として、彼もまた言及さるべきである。(文庫版96ページ)荻生徂徠の方法とは、著者によると次のようなものでした。 要するに徂徠の方法は、今日の事態にたとえていえば、もはや英語やドイツ語で書かれた哲学の本は読まない。読んでも大切にしない。ギリシア語そのもののみを読む。そうしてギリシア語をよりよく読むために、自分の文章もギリシア語でしか書かない。またギリシア語のリズムを知るために、ギリシア語の詩を作る。そうしてほんとうのギリシア哲学の精神を把握する。そうした方法であった。(文庫版109~110ページ) ところでまた徂徠は、言語生活を、中国に接近させる方法として、当時としては大へん新しい方法をとった。すなわち中国の文章を、いわゆる訓読という方法で、日本語の語序と語法にかえて読む方法は、おそらく中国語がはじめて渡来した古代以来のものであり、徂徠のころもそれが普通の方法であったが、彼はそれにあきたらず、学問では彼の弟子であった長崎の岡島冠山につき、熱心に中国の現代語と現代音を学び、それによってすべての中国の文章を読み、彼の弟子たちにもその教育をした。(文庫版112ページ)しかし、著者は文章家としては徂徠よりも仁斎の子・伊藤東涯を推しています。伊藤東涯の業績について述べた『伊藤東涯』(文庫版166ページ以下)では、伊藤東涯の文章を褒めて次のように言っています。 私は東涯先生の漢文を、非常に上手であると思います。よく世間には徳川時代の儒者の漢文というものは、中国の人に読ますと調子が悪いのじゃないかという人がありますが、東涯先生の文章は、たとい中国人に読ませても、ひどくリズムにはずれるところはなかろうと思うのでありまして、あれだけ書くということは、よほど才のある人でなければ出来ないと思うのであります。これはやはりお父さんの仁斎先生が既にそうでありますが、東涯先生もお父様についで立派であります。もっとも東涯先生の漢文は、山陽外史の漢文のように、人を激励し鼓舞するというふうな、激越な文書ではありません。でありますから、「日本外史」を読むように面白くはありません。けれども一体に山陽外史のような、アクセントの強い文章を書くのと、東涯先生のようにアクセントに乏しい文章、しかしそれでちゃんと文章になっている文章、そのどちらを書くのがむつかしいのかと申せば、それは東涯先生のようなものを書くのがむつかしいのであります。かく書きにくい文章を巧みに書かれたということ、これはやはり先生の偉大さを物語るものであると思います。その点は同時代の漢学の大家として東西に対峙していました徂徠も、名文家でありますが、私はむしろ徂徠の文章よりも東涯先生の文章の方が危な気がないと感じます。徂徠の文章は才気煥発でありますが、ときどき何かちょっとおかしいようなところがある。東涯先生にはそういうところがすくない。(文庫版173~174ページ)また、東涯の学問は非常に正確であり、著者・吉川氏でさえも間違いを見出すことができないほどであること。また、その業績は今日の学者にとっても有益であり、『制度通』『操觚字訣』は早いうちに読んでおくべきだとしています(文庫版175ページ)。 吉川氏の目には仁斎、徂徠、宣長の三人(と東涯)しかないのですが、意外にも頼山陽に対して高評価を与えています。 徂徠は、江戸時代に於ける中国への関心の極点であると共に、その時代の中国系学問の上昇の極点でもあった。一七二八、享保十三年の正月、中国の紀年では清の世宗の雍正六年、六十三で徂徠がなくなったあと、一八六八、江戸幕府の滅亡にいたるまで、百五十年の時間は、日本の儒学にとって、下降の時期であったように思われる。といって、私はその歴史にほとんど無知である。かくれた人材は、いろいろとあるであろう。しかし仁斎や徂徠のように食欲をそそられる人物は、もはや儒学の世界にはいない。徂徠の次の時代の日本の学問の選手は、本居宣長であって、徂徠の死んだ翌翌年に生まれ、一八〇一、享和元年、清の仁宗の嘉慶六年になくなっているが、宣長ほどの人材が、もはや儒学者の中に求められないこと、これはたしかである。ことに寛政二年、一七九〇、中国では清の高宗の乾隆五十五年、松平定信の内閣が、朱子学のみを儒学の正統とみとめ、徂徠学その他を抑圧したことは、一そう儒学をいじけさせ、思想統制というものが、いつの世にももつ弊害を示すに充分である。もしそれ以後における人材を、儒学と関係ある世界にもとめるならば、頼山陽であろうか。山陽の「日本外史」は、この時期の漢文として、もっとも立派なものである。(文庫班125~126ページ)安井息軒や松崎慊堂などの考証家には目もくれず(もっとも本書には「息軒先生遺文続編の序」が収められていますが)、学者というよりは文章家である頼山陽を高く評価していることは、吉川氏の文章に対する思い入れがうかがわれて、興味ぶかいところです。 | |
2022年8月31日公開 |