日本漢文の世界:本の紹介

書名 重野安繹における外交・漢文と国史
副題 大阪大学懐徳堂文庫西村天囚旧蔵写本三種
シリーズ名 関西大学東西学術研究所資料集刊37
編著者 陶 徳民(Tao Demin)
出版社 関西大学出版部
出版年次 平成27年(2015年)
ISBN 978-4-873-546087-8
定価 6,000円
編著者の紹介 編著者(1951-)は関西大学教授。『内藤湖南と清人書画』(関西大学出版部)、『吉田松陰と佐久間象山』(関西大学出版部)などの著書があります。
本の内容:

重野安繹における外交・漢文と国史―大阪大学懐徳堂文庫西村天囚旧蔵写本三種 (関西大学東西学術研究所資料集刊)

 重野安繹(しげの・やすつぐ)は成斎と号した明治の大学者で、漢学および国史学に大きな業績を残した人です。
 本書は、重野安繹に関する(1)『横浜応接記』、(2)『漢文講義』、(3)『先師国史講演草案』の3つの資料を収録したものです。(1)『横浜応接記』は、薩英戦争の和議を図るため、藩命にて横浜において英国公使と交渉する大役を担った際の交渉記録です。(2)『漢文講義』は、71歳の時にに大日本教育会が教員研修事業として行っていた夏期講習における円熟の講演記録です。(3)『先師国史講演草案』(『大日本歴史略説』)は、81歳ときオーストリアのウィーンで行われた「万国学士院聯合会議」に最高齢の出席者として出席したときの発表資料の英訳原本で、成斎の最晩年における歴史観を反映した資料です。
 これら、三種の資料は、いずれも『増訂重野博士史学論文集』(名著普及会)に未収録です。最初の『横浜応接記』だけは、影印版では読みにくいため活字に翻字されたテキストが付いていますが、他の二つの資料は影印版のみが収録されています。また、『先師国史講演草案』(『大日本歴史略説』)は実際にウィーンで配布された英訳版も収録されています。
 歴史学に興味のある方は、(1)(3)の資料も非常に重要なものであろうと思いますが、私は(2)『漢文講義』に注目しました。これは当時71歳であった著者が教員の研修会で講義した内容で、講義は十数回にわたります。著者は、当代の漢学の泰斗であり、漢文を実作していた最後の世代の大学者です。その人が円熟期にいたり、若き教員たちにどのような講義をしたのか。興味津々で読み始めましたが、まことに期待を裏切らない、充実した内容でした。これまで人の目に触れることなく阪大の倉庫に眠っていた本資料を発見し、世に出してくださった編著者に感謝します。
 さて本資料は、『漢文講義』と題されていますが、漢文の原典を解釈する部分は全くなく、漢学の概要と研究方法を懇切丁寧に解説したもので、『漢学講義』と題したほうがしっくりくる内容です。

 本資料の内容は、1漢文の起源、2漢文の応用、3漢文の変遷、4漢文の法則、5漢文の名家、6日本の漢文、となっています。
 1漢文の起源では、漢字の起源が説かれてあり、沖縄の結縄が上代の名残である(本書35ページ上段)とか、蒼頡が鳥や獣の足跡を見て漢字を作ったというような話からはじまり、許慎の説文解字にも詳しく触れています(本書36ページ下段以下)。
 重野博士は、漢学の研究方法として字書や訓詁といった、いわゆる「小学」を重視すべきだと考えていました。「1漢文の起源」に次のような記述があります。
 最初先ず文字を知らなければ、経書でも歴史でも何んでも講究することが出来ないから、これを小学でしたのである、それが後世では、その学科の践み様が反対してしまって、足元をば極めずして上の方を修めるという様なやり方になって来た。もっとも宋の世の学者先生などは、小学の字書等を調べることを全く廃して、そうして彼の朱子が拵えたる小学という書物にある様に、洒掃応対進退の事を稽古をして、そうして「入ては孝、出ては忠」という教えを先にして、十五歳から大学に這入れるということにしたから、それゆえに字書などを調べることはサッパリ無くなって仕舞いました。(中略)小学という者で漢文字の初めに学ぶ可きは字書である。それから訓詁音韵という者を少年の内から会得させて置くのが、後の為めに余程進歩が早い者であります。(本書41ページ。現代表記で引用。以下これに倣う。)
「2漢文の応用」では、正史の熟読を勧めています。
 国学者の本居宣長は二十一史(その時分には明史が添わなくて二十一史と言った)を五遍繰り返して読んだということであります。(中略)宣長は右の如くに勉強を致したが、専門の漢学者でも二十二史を五遍も通したという人は先ずない。只今頃の漢学者は一遍も通したという人は少ないと思う位で、これは余り漢学者を浅く見て居る様にお疑いもあろうが、実はそういう様な有り様である、そこで此の漢文を修むるに当って、先ず一修行やる積りで掛れば、この位の者を見さえすれば、経書の事から歴史の事から、また諸子類の事から、総てその中に籠って居る。例えば諸子類のうち『老子』『荘子』『荀子』『韓非子』『揚子』などの伝が史記や漢書等に見えて居るが、その中に大要の事は皆挙げてあるから、この二十二史を読む間に諸子類の学問も出来てゆく。また経書の方は六経・論・孟・三礼・三伝・小学の爾雅まですべて研究が出来、また政治・経済・法律諸道の事は、二十二史の内諸志類にすべて載せてあれば、古今の経歴四千余年の沿革もわかる。そういう所から考えて見れば先ずこの書物を読みさえすれば、それより先は坂下ろしに出来てゆく。(本書58ページ。)
 また、明治30年という時期に、漢文を中国語で直読することを勧めていることも注目に値します。(本書60ページ)

 「3漢文の変遷」では、時代や地域による文体の違いについて述べています。魯や斉でできた経書は文章が完結であるが、中原でできた諸子類は文章が長く複雑であると書いていることも興味深いです。
 すなわち諸子類の中で『荀子』というがあるが、この荀子は趙の辺の人である。そこで荀子の文章をば能く読んでご覧なさると分かるが、どうも文字が一種の文字であって、魯の国の経書などの文字とは大に違う。ご承知の通り、経書の内の『孟子』などは論語の文体と能く似て居るが、『荀子』となると大変違う。同じく孔子を祖述して孔子の道徳を主張して書いたる荀子であるけれども、その文体が違う。荀子は純然たる孔子の学派で、かえって孟子よりも孔子の本意を得たる者であろうという説がある位であるけれども、その文は違う。という者は、土地の風習という者は、自然と文体に移る者であって、言語は即ち文字に写す者であるから、文字は言語と対した者である。で、国々の言語という者は、魯の国・鄒の国・斉の国・晋の国、皆言葉が違う。言葉が違えば文も違わずばならぬ。言葉の組織が違って居れば、文の組織も従って異なることは、これは当り前の事である。『荀子』の文を読んで見ると、余程文も長い。『斉論』は『魯論』に比すれば長いというような者の、まだそんなに長くはない。同じ『論語』に入れても、細かく見んければ分からぬという者だが、もう『荀子』辺りの文になっては、とても『論語』などに入れることが出来ない文字であって、丸で組織が違って居る。それなら時代が違うかとすれば、荀子は孟子と同時代の人である。然るに『孟子』の七篇の中の文字を『論語』の中に入れてもそんなに差別はない位な文字であるが、荀子の書いたる文字はとても論語の中には入れられぬ。それで文体が土地に依って違うということを発明せずばならぬ。(本書68-69ページ)
 『左伝』の文は魯の文章で、『史記』は中原の文である(本書74ページ)、陳寿の『三国志』は『左伝』の系統を引いた完結過ぎる文章で、注釈なしでは歴史的事実が分からない(本書74ページ)など、面白い指摘も随所にあります。
 『文選』については、次のように主張しています。(本書79ページ)
 この『文選』という者は文字の祖であるからして文字を調べるには『文選』を熟読しなければならぬ者であります。これは古文家でも散文家でも、もとより『文選』に拠らぬ者は無い。我邦で古(いにしえ)は『文選』を熟読した者である。紫式部、清少納言などという女流の学者も『文選』は大抵暗諳をして居ったということである。この頃の朝廷の文は駢儷であるからして、『文選』を最も能く調べずばならぬ。代々の文章博士、皆そうであった。鎌倉以後、幕府の五山の僧徒が文柄を握ったが、これも第一に『文選』を調べたものである。江戸幕府時代になって物徂徠の学派に於ては、先ず『文選』を首(はじ)めに読んだ者で、『文選』で文字を調べさせなければいかぬという説であった。我々共が育つ自分には四書五経という者を読み、さて『文選』を読むという規則になって居った。『文選』をずっと読んでゆけば、文字は大抵分かる。『文選』は字引を兼ねて居る者であるから、例えば海ノ賦、江ノ賦などというのは魚の類は皆入れてある。先ず字書を暗唱するような者であるから、『文選』を読まなければ力が附かぬということであった。ところが近頃は『文選』はとんと行われぬ様になった。そこで文辞学は甚だ幼稚になって浅薄になって来た。『文選』は僅か十二巻であるから、幼少の時分にこれを読まして置くと漢文字の力は余程助ける者である。
「4漢文の法則」とは、文体に属する法則と作文に属する法則のことです(本書90ページ以下)。
 ここでは、書、序、記、議、策、論、説、書後・題跋、紀・伝・・・等の文体について説明した上で、詩を作っている者は序、記から入るのがよく、歴史好きの人は論から入ればよい。好むところから入門していけばよいといっていますが(本書100ページ以下)、一方で漢文の修行方法として「紀事文(翻訳文)の稽古」を挙げています(本書101ページ)。これはどのようなものでしょうか。
 またもう一つ文の稽古をするに、紀事文の稽古ということがある。この紀事文というは、いわば翻訳文であるので、その翻訳文の稽古をして、ある一つの事柄が和文で書いてあることをば翻訳して漢文に為すので、これが紀事文という者である。それで昔の漢学者の中には、子弟に文章の稽古をさせるには、紀事文からさせるという流儀の人が段々ありまして、京都の皆川淇園(寛政時代の漢学者)などは、紀事文から這入るというが持論であります。それで『習文録』という書物が十冊ばかり出来て居りますが、この『習文録』は支那の小説類、例えば世説の如き者、あるいはちょっとした箇条書きに言行を記した、いわゆる古人の言行録について、漢文に書いてあるその一段一段をば日本文に翻訳をさせる。そうして仮名交じりのものに翻訳をさせて、それをばまた漢文で書かせる。これが『習文録』である。その本文は見せずに置いて、そうしてその仮名交じりの翻訳文を子弟に授けて、漢文に翻訳をさせる。翻訳をさせてから、それから原書を出して、原書と比較して、「この翻訳は、これでは当たらぬ、原書がこう出来て居る」、あるいはまた「字の置き所が、上と下と顛倒して居る」、あるいはまた「助字の使い方が間違いがある」、ということをば指摘して、そこでもって文字の綴り方を会得させるというのが、この『習文録』の極意である。それがすなわち紀事文の翻訳である。そういうことをして頻りに弟子どもに文章を教えたということである。(本書101~102ページ)
 もう一つ、重野博士は暗唱を重視するよう提言しています。
 そににもう一つ漢文を書くについて注意すべきことは、暗唱ということで、ぜひ暗唱はせずばならぬ。その暗唱という者は、古人の文章という者を暗唱するのであって、支那人は小さい時からおよそ小学の初等からして暗唱を皆させた者である。先ず初め『三字経』という者を暗唱させる。それからして経書を暗唱させる。それから十四五歳になると、文を書き、詩を作り、及第の試験に応ずることをばやらせる。で、先ず暗唱が本である。我が日本は、その暗唱という者がありませぬからして、どうも漢文の文字が腹に染み込んで居ない。漢文が腹に染み込んで居らなければ、筆を下すに臨んで、疑惑を生ずる者である。ゆえに漢文を書く人は、先ず暗唱をぜひしなければならぬ。その暗唱は、『文章規範』『八大家文読本』の中でよろしい。この書の中で、我が心に喜ぶ文章があろう。その喜ぶ文章をば暗唱するがよろしい。そうして暗唱をして、それを先ず実際に書いてみるがよろしい。その書いたのを原文と照らし合わせてみて、助字の使い方や文字の顛倒を訂して、それを直すがよろしい。そうしていよいよ口に覚えたる暗唱と、筆を取って書くのとが一致する様にならなければならぬ。そうして先ず一篇暗唱が出来たら、今度はほかの文を取って、また気に入った者をば、その通りにする。少なくとも十篇位、多くは二三十篇、五六十篇にも至る位に暗唱をすると、そうすると漢文の規則、法律、また文の綴り方などが自然に腹に浮かんで来る様になって来て、そこで外の事を自分が書く時に、おのずからその法が手に従って生ずる者である。塩谷宕陰(幕府の儒者)なども、始終暗唱をして居りまして、およそ七十篇ほど暗唱して居った。「今でも三十篇位は覚えている」と言って、六十位の頃に申したことがあります。この人は夕方になって書物の文字が見えない時分、灯火をつけるには少し早いという頃には、座敷を立って、あちらこちらを経廻って、暗唱をして歩く、という人であった。拙者なども宕陰からその説を聞いて、こちらに留学中は始終暗唱の稽古を致して居りました。芝の藩邸から昌平黌(今の師範学校)まで、大抵隔日位には往き居った。その途中、往復とも暗唱を稽古するの時間として、暗唱ばかりして居った。一向世間の事も知らずして、物に突き当たっても知らない位で、そうして四五十篇ほど暗唱をした。今でも大抵覚えて居るが、しかし追々と忘れて来た。中村敬宇なども暗唱家であって、これは四書五経は大抵暗唱をして、晩年までも暗唱を始終やっておりました。で、この漢文を習うには、先ず暗唱が一番漢文を書くの便利法である。この暗唱という者は、ひとり漢文ばかりでない。歌を詠むにもそうで、雨森芳洲という学者は、八十一から歌を詠むことに志して、『古今集』を千遍通したということである。その位読めば、『古今集』の歌は必ず暗唱するに相違ない。それで、歌でも詩でも文でも、各々調子という者がある。その調子という者をば得なければ、その者は腹に入らない。腹に入らない以上は、口に出すことも筆に述ぶることも出来ない。すべてこの暗唱をするということは、その調子を得るためである。(本書104~106ページ)
 そして、「5漢文の名家」では、重野博士の見る名家を簡単に紹介しています。注目すべきは、明の名家は帰震川に限るとし、清国の名家には曽国藩ら桐城派だけを挙げていることです。「6日本の漢文」はあまりにも簡単にすぎるので、ここはもっと詳しく説いてほしかったところです。

 以上簡単に紹介しましたが、さすが碩学の講義であると思います。掘り下げていけば、独自の学説に発展するようなヒントも多く含んでおり、熟読吟味するべき資料です。
   重野安繹における外交・漢文と国史―大阪大学懐徳堂文庫西村天囚旧蔵写本三種 (関西大学東西学術研究所資料集刊)
2017年3月26日公開。

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