日本漢文の世界:本の紹介

書名 頼山陽と戦争国家
副題
シリーズ名
著者 見延 典子(みのべ のりこ)
出版社 南々社
出版年次 平成31年(2019年)
ISBN 9784864891028
定価(税抜) 2,700円
著者の紹介 著者(1955-)は小説家。小説『頼山陽』(徳間書店)のほか、頼山陽をテーマにした著書も多い。
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本の内容:

 本書は、江戸時代末期の文豪・頼山陽に対する世間の評価が、その没後どのように変遷し、時代ごとに為政者や志士等にどのように利用されたかを丹念に追った論考であり、今までにない独創的研究です。
 以下、本書のあらすじを紹介します。

 頼山陽は、『日本外史』、『日本政記』等をバランスの取れた史観で記述し、それゆえに『日本外史』は白川楽翁公(松平定信)のお墨付きを得て、幕府親藩の川越藩から出版され、佐幕派にも愛読されました。新撰組の近藤勇も外史の熱心な読者でした。(本書第1章)
 ところが、安政大獄で頼山陽の子・賴三樹三郎が刑死した事件から、頼山陽はしだいに勤皇思想の象徴に祭り上げられて行きます。後期水戸学とも関連づけられるようになり、『日本外史』は維新の志士等に愛読されるようになります。そして明治以後、『日本外史』等の頼山陽の著作は天皇の権威付けに利用され、頼山陽こそは維新の大業を思想面から推進した大思想家、大文筆家として、絶大な尊敬を集めました。教科書にも頼山陽の記事が載り、「日本精神叢書」等の文部省の国策思想宣伝にも頼山陽は利用されます。そして、頼山陽は日本精神の表現者として、昭和の敗戦までの間、戦争国家の思想的支柱とされたのです。(本書第2章)
 国家による頼山陽利用の究極の姿として、広島市が頼山陽没後百年(昭和6年)の記念事業として計画した「賴山陽文徳殿」があります。文徳殿は頼一族の墓がある多門院の隣の土地にある建物で、はじめは「頼山陽廟」として計画されました。内部には頼山陽の木像を安置して忌日に祭祀を行うほか、いくつかの会議室も設けて、普段は文化的施設として市民が利用できる施設になるはずでした。ところが、文徳殿は、計画段階から市役所内部の対立などで計画が進まず、設置が決まってからも、相次ぐ資金不足で募金を重ねるなど、順調とは言えない経緯を経てようやく建立されました。ところが、完成後は管理予算の不足から管理を民間人に委ね、今日までほぼ利用されることのないまま放置されてきました。著者は、頼山陽文徳殿の建設に関わった山崎楠岳が残した資料を発掘し、建設の経緯を初めて明らかにしています。これは特筆すべき成果です。(本書第4章)
 頼山陽は日本精神の体現者として宣伝され、ついには「山陽神社」が計画されるに至りますが、超右翼勢力から『日本政記』にある後小松天皇や後醍醐天皇に対する批判が問題視され、山陽神社は実現しませんでした。著者は「今日的にいえば、山陽への批判はまさに『帝国主義日本の思想、勤王論を鼓吹した』ところに元凶があったのであり、現に山陽は軍国主義に加担した人物という烙印を押され続けてきた。もしほんとうに山陽神社が建てられれば、いよいよ山陽は誹りを免れなかったろう」(本書212ページ)と言っています。(本書第5章、第6章)
 しかし、戦後の憲法改正をはじめとする民主化やGHQの検閲により、頼山陽は意図的に消し去られ、世間からも急速に忘れ去られることになります。本書には、広島市立袋町小学校の校歌から頼山陽が消えた例を挙げています。頼山陽が歌われていた二番の歌詞が戦後は歌われなくなり、三番が現在の二番になったのです(本書226ページ)。著者は「終わりに」で、「かつて活躍した人物が時の流れとともに忘れ去られるという話はめずらしくない。だがその人物の評価の浮き沈みと国家のありようが関係しているとすれば、どうだろう」(本書230ページ)と感慨を込めて述べています。
 戦前に明治維新の思想的支柱建立者として神格化された頼山陽も、戦後に天皇中心の国家体制の思想的象徴として否定された頼山陽も、実はどちらも虚像に過ぎず、現実の頼山陽はバランスの取れた史観を持つ文人であったことを著者は強調し、「山陽の著作をありのままに受け入れて読むところから、山陽の再評価の道は開けていくであろう」と言っています。
 頼山陽がその作品『日本外史』とともに戦争国家に利用されたことは、『日本外史』への正しい理解を妨げる悲劇でした。国家による文化利用について深く考えさせられる一冊です。
2021年1月31日公開

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