日本漢文の世界:本の紹介

書名 海を渡った日本書籍
副題 ヨーロッパへ、そして幕末・明治のロンドンで
シリーズ名 ブックレット<書物をひらく>14
著者 ピーター・コーニツキー(Peter Kornicki)
出版社 平凡社
出版年次 平成30年(2018年)
ISBN 9784582364545
定価(税抜) 1,000円
著者の紹介 著者(1950-)はケンブリッジ大学名誉教授。専攻は日本文化史。(
所蔵図書館サーチ 海を渡った日本書籍 : ヨーロッパへ、そして幕末・明治のロンドンで(ブックレット〈書物をひらく〉 ; 14)
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本の内容:

 今日では海外における日本研究は盛んにおこなわれており、外国の図書館や大学に所蔵される日本書籍の数は厖大です。では一体いつごろから日本書籍は各国の図書館等に所蔵されるようになったのでしょうか。
 本書はヨーロッパへの日本書籍の流通がいつごろ、どのように始まったかという興味深い問題を、「1元禄年間まで」、「2ペリー来航前夜まで」、「3明治初期まで」、「4ロンドンの日本書籍売買」の4章に分けて論じています。

 まず、「1元禄年間まで」ですが、驚くべきことに17世紀にはすでに日本書籍がヨーロッパにもたらされていました。海を渡った最初の日本書籍は、平戸のイギリス商館長であったリチャード・コックス(1566-1624)が購入したと推定される『吾妻鏡』の古活字本です。大部分は散佚していますが、残存した一部分が、イギリスのケンブリッジ大学付属図書館とアイルランドのトリニティ・カレッジ(ダブリン大学)付属図書館に所蔵されています。(本書13ページ)しかし、17世紀のイギリス人には、これらの日本書籍を読める人はいませんでした。著者は次のように言っています。
 十七世紀のイギリスには、これらの本が読める人が一人もいなかったのだ。このことは、実はケンブリッジ大学所蔵の『吾妻鏡』の表紙が雄弁に物語っている。もともとの日本の表紙はすぐはずされ、ヨーロッパ式の半革表紙が代わりにつけられた。その背表紙(つまり本棚に縦に並んでいるときに見える部分のこと)に「Liber Sinensis Manuscriptus」という文字が書いてある。それはラテン語で「中国の手書きの本」という意味である。実際は、中国のものではなく、また写本でもないので、「本」に該当する言葉だけが当たっているという滑稽な結果となる。その本の持ち主が、日本の本だと分からなかったのは、古活字版『吾妻鏡』が漢文で書かれているから、中国語の本と誤解しても全然おかしくない。(本書20ページ)
 鎖国時代には、長崎の出島にあったオランダ商館が日本書籍流通の拠点になりました。ドイツ人の医師エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)は、出島に二年間滞在しましたが、その間に収集した日本書籍のうち数十点が、現在ロンドンの大英図書館に保存されているそうです。(本書23ページ)
 その後は、日本語への好奇心も次第に高まり、「いろは」など仮名を用いた簡単な日本語学習書がヨーロッパ人の手で編集されたりもしています。(本書27ページ)

 次に「2ペリー来航前夜まで」には、漂流民がヨーロッパにもたらした日本書籍について触れています。ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう、1751-1828)はロシア皇帝に9点の日本書籍を贈呈していますが、それらの書籍は、現在サンクトペテルブルクの科学アカデミーの東洋学院に保存されています。(本書31ページ)しかし、ロシアには日本語を読める読者はおらず、図書館が日本書籍に付した解説も、他言語の書籍の解説に比べると見劣りします。(本書38ページ)
 また、オランダ商館長を三回もつとめたイサーク・ティチング(1744-1812)は、膨大な日本書籍を買い集めていました。それらの日本書籍は、遺言により大英図書館に寄贈されるはずでしたが、仏英戦争の勃発により寄贈ができなくなり、オークションにかけられてしまいました。その一部をユリウス・ハインリヒ・クラブロート(1783-1835)が購入して研究し、彼は最初の日仏辞書を作成しています。(本書44ページ)
 その後、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトといった人たちが収集した膨大な書籍がデンマーク国立博物館や、ライデン大学図書館等に所蔵されることになりました。(本書48ページ)

 「3明治初期まで」には、ペリー来航以来、下田の居留地にあった本屋などで、日本書籍の蒐集をする人たちが現れたことを記しています。なかでも有名なのはイギリスの外交官であったアーネスト・サトウ(1843-1929)で、彼は横浜だけでなく京都でも蒐書にはげみ、その膨大な蔵書は大英博物館などに保存されています。それまでの蒐書家とはちがい、この頃の蒐書家たちは日本語を読むことができました。著者は次のように書いています。
 サトウ、アストン、ディッケンズ、チェンバレンの蒐集活動については認識すべき点が三つある。第一は世界一周の旅行家が絵本を中心に買い集めたのと違い、彼らは日本語の文章を読む力を持っていたから文章を中心に蒐集していたこと。第二は、幕末の木版本がくずし字や変体仮名だらけで、現代の感覚から言えばとても読みづらいものだったこと。だから彼らにとって、当時の日本人と同じように、くずし字や変体仮名の知識も読書するのに不可欠だった。第三は、当時の日本人と同様、蔵書に蔵書印を押捺していたこと。サトウは「英國/薩道蔵書」、アストンは「英國/阿須頓蔵書」、チェンバレンは「英国王堂蔵書」(王堂とはバジル・ホールの和訳)という蔵書印を使用していた(ディッケンズは蔵書印を使用しなかった)(本書58-59ページ)
 「4ロンドンの日本書籍売買」では、幕末・明治のロンドンでの日本書籍流通について叙述しています。幕末のロンドンにはすでに数十人の日本人留学生が暮らしていましたが、明治維新による幕府崩壊で幕府留学生たちは金欠になり、自らの持ち物を売却して急場をしのいでいました。
 そのときちょうどバーナード・クォーリッチ(1819–1899)がロンドンで古書店を開業し、こうした日本人留学生たちの所持本を買い取ったほか、フランスやベルギーでのオークションや日本書籍の蒐集家から日本書籍を購入していました。(本書75ページ)
 また、同時期にニコラス・トリュープナーという人物が作成していた販売目録には、1867年の時点で多くの日本書籍が掲載されていました。本書80ページから85ページにかけて、そのリストが引用されていますが、『平家物語』、『百人一首』といった和文の古典、『経典餘師』のような初学者用の漢籍学習書、『国史略』、『日本外史』といった漢文で書かれた日本史のほか、地図、辞書など多岐にわたっています。

 維新後のことは「むすび」に少し書かれています。
 明治時代までは、日本の書籍が西洋へ流れることは、日本人が中国や朝鮮へ送り込んだのと違い、西洋人が積極的に買い集めて持って帰るパターンだった。漂流民も書籍を持っていったが、それは当然、わざわざ持っていったわけではない。日本から書籍を送り込む最初の例は明治十六年(一八八三)のことだった。前年の明治十五年に有栖川宮がサンクトペテルブルクに立ち寄ったときに、サンクトペテルブルク大学に日本学科があることを知り、感心し、帰国後、日本学を促進するつもりで、数千冊を寄贈した。同じように、大正十年(一九二一)に皇太子(のちの昭和天皇)がベルギーのルーヴァン大学を訪問した結果、ルーヴァン大学に寄贈された書籍も江戸時代の古書が多かった。同年に皇太子がケンブリッジ大学へ寄贈したのも、江戸時代末期に刊行された『群書類従』という膨大な叢書だった。当時の古書の寄贈は、いまの目で見れば非常にありがたいことだが、近現代の日本を知るのに、古書だけでは用が足りるまい。しかし、西洋の大学が現代の日本書籍を所蔵するようになるのはまだ先の話だった。(本書93-94ページ)
 西洋における日本学の発展はめざましいものがありますが、その研究材料となる日本書籍の蒐集がどのような過程で進められてきたのかを、歴史をひもといて初めて明らかにしたのが本書です。わずか100ページほどの小冊子ですが、興味はつきません。

2024年12月7日公開

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