書名 | 漢学と洋学 |
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副題 | 伝統と新知識のはざまで |
シリーズ名 | 阪大リーブル24(懐徳堂) |
著者 | 岸田 知子(きしだ ともこ) |
出版社 | 大阪大学出版会 |
出版年次 | 平成22年(2010年) |
ISBN | 9784872592450 |
定価(税抜) | 1,700円 |
著者の紹介 | 著者(1947-2015)は元中央大学文学部教授。 |
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本の内容: 明治時代、あらゆる分野で洋学を取り入れ、西洋化に成功した日本は大発展を遂げていきます。そもそも洋学は日本でどのように受容され、発展していったのか。江戸時代における洋学の受容を漢学との関係という視点から捉えた好著です。 「日本の近代以前の学問は、ほぼ儒学だけであったといっていいだろう」と本書の冒頭に著者は書いています(本書「はじめに」1ページ)。もちろん、当時において仏教学や国学もあったはずですが、一般人が触れることのできる一般的な学問は、儒学すなわち漢学だけであったのです。そして、漢学を学ぶことは「物知り」になることでした(本書「はじめに」3ページ)。そして、実際に漢学者は「物知り」であることにより幕府や大名たちに重宝され、それが役目に取り立てられる理由となっていたのです。 オランダからもたらされた新知識である「蘭学」は、このような漢学万能の状況下で、新奇な学問として出発したのであり、当初は漢学者や一般人から「夷狄の学問」として排斥を受けることもしばしばあったようです。そのため、初期の蘭学者たちは、こうした漢学者たちからの批判をかわすために、著作にあえて難解な漢学的な表現を取り入れていました。著者は、岩波思想体系の『洋学』に収録された蘭学者たちの著作の序文や跋文が、漢文や漢文訓読体で書かれてていることに注目しています(本書48ページ)。当初は蘭学を啓蒙する書物の構成すらも伝統的な漢学の書物に倣わざるを得なかったのです。 しかし、そうした漢学万能の雰囲気の中でも、蘭学者たちは決して漢学に対して膝を屈することなく、堂々の自己主張を展開していました。著者は、『解体新書』の訳者の一人で、『蘭学事始』の著者である杉田玄白の漢文作品『狂医之言』を取り上げています(本書62ページ以下)。そして、その中で玄白が中国をオランダ語のシーナ(China)に基づいて「支那(シイナ)」と呼んでいることに注目します(本書65ページ)。世界の中央を意味する「中国」という名称を用いないことは、「中国」を絶対的権威と認めず相対化することになり、漢学の絶対的権威を揺るがすことになるのです。そして蘭学は実用の面で漢方医学よりもすぐれていることを論じ、「オランダは夷狄」として退けるべきでないと結びます。「夷狄(いてき)」は「中華」に対して辺境を意味し、「野蛮」のイメージがありましたが、玄白はそうではなく文化が違うだけだとし、自分は周の武王に従わずに餓死した伯夷・叔斉のようにオランダ医学に殉じる決意だと述べています(本書83ページ)。 このように当時の蘭学者たちは蘭学擁護のために堂々の論陣を張っていますが、蘭学を擁護するにも、漢文や漢文崩しの文章で難解な漢語を操り、漢学的スタイルを守りつつ行わなければならないほど、当時の世間では漢学の権威が浸透しており、新しい学問である蘭学への風当たりはきつかったのです。 江戸時代後期になると、状況は著しく改善します。著者は、大阪にあった懐徳堂と適塾について「全国的な知的ネットワークの中心であったという共通点をもつ」(本書114ページ)と紹介しています。 適塾は緒方洪庵が設立した蘭学塾で、福沢諭吉ら逸材を輩出したことで有名です。ここでは自由な雰囲気の中で、塾生たちが競い合って猛勉強していました。ところが、ほど近くにあった懐徳堂との交流はほとんどみられないとのことです(本書123ページ)。 懐徳堂は中井竹山・履軒の兄弟が、広い知見で運営しており、木村蒹葭堂などの文化人を介して幅広い知的ネットワークが築かれていました。中井履軒は、麻田剛立の洋学塾「先事館」に出入りして、動物の解剖や顕微鏡などを実見し、「越俎弄筆」「顕微鏡記」などを漢文を書いています。履軒の弟子・山形蟠桃の『夢の代』は、ほとんどが竹山・履軒の教えを書き留めたものですが、天文や地理などに洋学的知識が披瀝されています(本書132ページ以下)。 最後に、日本各地を歴遊した漢詩人・広瀬旭荘を取り上げています。旭荘は驚くべき読書家であるとともに、交友もすこぶる広かったのですが、蘭学者・緒方洪庵とも交流しており、彼の日記『日間瑣事備忘』は洪庵や適塾を知るための格好の資料となっています。(本書161ページ)。彼は日記の補遺である『九桂草堂随筆』巻之六には蘭学の必要性を説いていますが、儒学者の立場も擁護しているとのことです(本書177ページ)。 このように草創期の先人たちが苦労して漢学と格闘し、その桎梏を解き放ったからこそ、明治期の怒濤の洋学受容が可能になったのです。 | |
2022年8月31日公開 |