書名 | 明治詩話 |
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副題 | |
シリーズ名 | 岩波文庫 31-119-1 |
著者 | 木下 彪(きのした ひょう) |
出版社 | 岩波書店 |
出版年次 | 平成27年(2015年) |
ISBN | 9784003119914 |
定価(税抜) | 1,000円 |
著者の紹介 | 著者(1902-1999)は本書執筆当時は宮内省御用掛、戦後は岡山大学教授。岡山大学退任後に台湾に渡り、国立政治大学客座教授。 |
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本の内容: 「詩話」とは、詩にまつわる逸話などを集めた書物のことです。本書は明治時代の漢詩にまつわる逸話を多く集めていますが、それがそのまま明治文学史を漢詩の面から捉えたものとなっています。明治時代は漢詩がもっとも隆盛を極めた時代でした。著者は昭和18年(1948年)太平洋戦争のさなかに本書を出版し、当時すでに失われようとしていた文化の片鱗を世に留めようとしたのです。 本書の巻之中のその一の冒頭に著者は次のように書いています。 ◎輓近(ばんきん)世上に流布する明治文学の研究書は、殆(ほとん)ど皆申し合せたように、明治初年の文学を閑却または軽視している。暗黒時代とか、過渡時代とか、混沌期とか、黎明期とかの名称の下に、こういう時代に文学はなかったと、一筆に抹殺し去るのである。しかして明治十八年『小説神髄』が出て、西洋模倣の近代文学が創(はじ)められた時を以て、明治文学の発端と為(な)すのである。仮名垣魯文や万亭応賀等の作品は、江戸文学の末流として明治文学とは切離して考えられようとし、適(たまた)まこれらの戯作やその他の政治小説の類を説く者はあっても、当時文学界の首座を占めていた漢文体の文芸作品を説く者に至っては、殆ど絶無に近いのである。顧(おも)うに明治の文化は、徹頭徹尾西洋の模倣であった。随(したが)って西洋模倣に非(あら)ざる文学は明治の文学ではないというような見解を以てすれば、この態度は一応妥当であるかも知れない。しかしこの時代の文学を文学として歴史的に認識せんとする場合、この態度は先ず是正するの要がある。しかして好むと好まざるとにかかわらず、その文学的意義と価値とを認識しなければならぬ。(巻之中その一 本書226ページ)こうした動機から書かれたのが本書は、江戸・明治にわたって活躍した大詩人・大沼枕山が明治2年(1867年)に出版した『東京詞三十首』を一首一首紹介していくことから始まります。(巻之上その一) そして、明治維新の中途で斃れた多くの志士たちをその詩とともに哀惜の中に紹介し(同その四以下)、西郷南洲に対しては特に同情を寄せています。こうした志士たちがただの政治的人物だったのではなく、漢詩を解し、漢詩を作る文学ある人々であったことは、広く知られるべきだと思います。著者は、南洲が賊軍となったことにより誹謗中傷を被ったことを憤って、次のように述べています。 ◎私は西南役に関する詩文を集めた物や、当時刊行されていた雑誌中の、同役に関する作を能う限り多くしらべて見たのであるが、佳作極めて乏しく、しかもその殆ど全部が南洲を誹謗し、賊軍を罵り政府に媚ぶる意味のものばかりであって、一代英雄の心事を解し、その末路に同情したものは更にないのである。これは私の意外とし寂しく感じた所であるが、一旦賊名を蒙った者に対して讃辞や好意を寄する訳には行かず、朝(ちょう)に官職を有する者など、なお更これを慎まねばならぬ事情もあったであろう。また彼らは新政府に地位を得て、漸(ようや)く太平の楽を享(う)けようとしていた矢先、この大乱となって、折角の地位もどうなるかという危惧も手伝い、南洲を憎悪した者もあったであろう。また要路に対し間接に阿諛(あゆ)を献ぜんとする底意の者もあったであろう。これは容易に看取し得らるる所である。(巻之上その七 本書198ページ)そして、南洲を悪罵した当時の有名詩人・森春濤(もり・しゅんとう)に対しては手厳しい批判をしています。 そもそも春濤がかく南洲攻撃に力を尽くすは何故か。叛乱を憎む正義心からなら好いが、彼は実はこれに依(よっ)て当路の官僚の意を迎え、その主宰する吟社に時めく官員を吸収し、門戸を大にせんとの魂胆があったのだ。詩人としての春濤の処世方は、大沼枕山などとは大いに違っていた。私は杜甫が初唐四傑の詩を盛んに非議する小詩人輩の態度に不快を感じて作った、「楊王廬駱当時体。軽薄為文哂未休。爾曹身与名倶滅。不廃江河万古流。」この詩を移して以て南洲を悪罵する当時の詩人に対する評としたいのである。蚊の鳴くような群小詩人の声なんか、その人と共にやがて消え去(さっ)て、南洲の大人格のみ江河万古の流と同じく永遠の生命があるのである。(巻之上その七 本書213ページ)巻之中では明治に大流行した狂詩について紹介しています。漢文戯作や狂詩については、当時大流行したにも関わらず、正格の漢詩文ではないために、ことさらに無視しようとする向きもあるなかで、作者はこれらを正当に評価しているのです。 しかし狂詩家というも、初(はじめ)から狂詩ばかり作った者ではなく、正詩を学び、これを能(よ)くする力があって、その余技として時世向きの狂詩を作ったものなのである。これは三木愛花が『狂詩眼』に序して「思ウニ今日ノ狂詩ヲ作ル者、大抵正詩ヲ能クス。即チ正詩ヲ作ル能ワズシテ狂詩ヲ作ルニ非ザル也。ケダシ激スル所アリテ正ヲ棄テ狂ヲ取ルノミ。古来世ニ激シ佯(いつわ)リ狂スル者尠(すくな)カラズ。」といえるを見れば思い半(なかば)に過ぎよう。世に激し佯狂(ようきょう)して狂詩を作った人として、成島柳北、石井南橋、源無水、田島任天諸氏の如き、その尤(ゆう)なる者であろう。これら人士の為人(ひととなり)と行蔵(こうぞう)を稽(かんが)え、しかしてその詩を読む時、深く胸を打たれるものがあるのである。(巻之中その一 本書248-249ページ)巻之下では、明治以降、清国・中華民国の外交官として日本に駐在した人々とわが国の漢学者たちとの応酬について書いています。同巻のその二では『日本雑事詩』の作者として名高い黄遵憲(こう・じゅんけん)を紹介しています。また、その三では、当時のわが国の漢学界の重鎮であった重野成斎、亀谷省軒といった人たちに招かれて明治12年(1879年)に来日した清国の文士・王韜(おう・とう)と、わが国の漢学者たちとの交友について紹介しています。王韜はそのときのことを『扶桑遊記』という著書にまとめています。しかし、著者はこれに対して厳しい批評をしています。 今その『遊記』を読むに、行文簡勁(かんけい)にしてしかも委曲を尽くし、読者をして身その境に遇うの思(おもい)あらしむ。但(ただし)卑俗の事をも写して毫も顧忌せざる所、甚だ文品を傷つくるのみならず、作者人品の俗なることを表わせり。詩は才藻富贍(ふせん)にして、文字を駆使するに練達の技倆を見るといえども、畢竟(ひっきょう)陳套(ちんとう)にして奇趣なく、人を動かすの精神に乏し。但この書に取る所は、当時の学者文人が、斉(ひと)しく目して当世の偉人と為し、夙(つと)にその風采を想望せし上賓(じょうひん)の来遊に対し、如何に感激し、如何に款待を尽せしか、文中、名士学者詩人等多々登場し来って、王韜と応接、唱和するの状、王のこれに対する態度並に月旦、更に醼飲(えんいん)の歓、声色の興に至るまで、尽(ことごと)くこれを詳悉(しょうしつ)し得て、更に明治初年の社会状態をも窺知し得ること是なり。(巻之中その三 本書417-418ページ)なお、この話の続きとして、岡鹿門(おか・ろくもん)が明治17年(1884年)に上海に王韜を訪問したときのことを著書『観光紀游』に書いていることも紹介されています。(本書456ページ) しかし、そうした日中の文士たちによる応酬も、昭和3年(1928年)、国分青厓(こくぶ・せいがい)らが中華民国の公使・汪栄宝(おう・えいほう)を招いて催した詩酒の宴と、その翌年に汪公使が催した宴を最後に、途絶えてしまいます。いうまでもなくそれ以後日中関係が冷え込み、戦争にまで発展したからです。(本書474-475ページ) この宴に陪席していた著者は当時を顧みて「爾来十余年、当日の詩客一半は鬼籍に入り、両国文雅の交の如き、復(ま)たこれを口にする者なきに至れり。予本編を草するに当り、俯仰(ふぎょう)低回、感慨これに係る。」(本書475ページ)と言っています。戦後もこうした応酬が復活することはついにありませんでした。 | |
2024年12月7日公開 |